自分が結婚することほど、驚くことはないと思っていたけれど、人生はまだまだ驚きを隠しているらしい。


銀が、鋼と鉄に結婚話をした夜まで、時間は遡る。


社長と他社のレセプションに出席していた葵は、かなり帰りが遅くなった。居間にはすでに誰もいない。父も床についたのだろう。台所の洗い物もすんでいるのがありがたい。銀か鉄か、たぶん銀だ。

風呂に入ってさっさと寝よう。光ももう家かしら。考えながら階段を上った葵は、自分の部屋の戸を開けてギョッとした。

「やだ、びっくりした」
「おかえり」
「ただいま、じゃなくてどうしたの」

葵の部屋で座り込み、見るからにどよんとした表情の鉄に、何か起きたのかと葵は身構えた。

「鉄？」
「あった、っていっても悪いことじゃなくて、どっちかっていうといいことなんだけど、俺にとっちゃいいってわけでも」

鉄がこういう冗長な話し方をするのは、頭の中もこんがらがってもつれている時だ。

「わけわかんないわよ。着替えるからその間に頭を整理しなさい。あっち向いて」

弟相手にストリップをする気はない。彼に後ろを向かせてスーツから部屋着のワンピースに着替え、ストッキングを脱いでようやくホッとした。

「いいわよ」
鏡台の前に座ってウェットティッシュでメイクを落としながら、鏡に映る末弟を見やる。確かにひどく落ち着かない顔だ。

「最初から話しなさいよ。何がどうしたの」
「……銀がさ、結婚するって」
「うそ」
アイメイクを落としたウェットティッシュを握りしめ、思わず振り向く葵に、鉄がうなずく。

「初音さんでしょ？　承知してくれたって？」
「ああ」
「ほんとに？　こんなに早いなんて思わなかった。良かったじゃないの」

自分も婚約したばかりだ。弟の結婚話に気持ちは高ぶる。銀がお嫁さんをもらうなんて。あぁ大きくなったものね。自分たちとどっちが先だろう。

「仕事も独立するつもりだって」
「独立？　事務所でも作るつもり？」
「それ。んで初ねーちゃんの店も一緒に作るって。角の野崎さんち」

めまぐるしい話についていくので必死だ。野崎さんちは確か空きビルになっていたはずだ。
「すぐそこ？　うそうそほんと？」

独立と結婚、どちらがきっかけだったんだろう。銀なら独立だろうが、初音は勤めてるのに大丈夫なのかしら。それにしても、こういう景気のいい話は好きなはずなのに。

「……なんで鉄は仏頂面してんの」
「家をリフォームするんだってさ」
「は、あ？」

情報量過多でパンクしそうだ。えーっと結婚に独立に、リフォーム？　怒濤の攻撃だわ。ディフェンスしきれない。
「家ってここ？　うち？」
しおれた犬のように鉄がうなずく。

「うちをリフォーム？　誰が言ったの」
「銀が、三世帯同居できるようにって言うんだ」
「三世代って、いくらなんでも気が早いんじゃ」
「たい、だよ。三世帯。親父と銀たちと、俺たち」

「俺、たちって」
「俺と、俺の嫁さん」
「……あんたも結婚するの？」
「んなわけないだろー？」

鉄が叫んだ。葵も叫びたいところだ。夜中の大声に、寝てる銀が飛び出してくるんじゃないかと思ったが、気配はない。

「銀なら潰れてる」
「潰れた？」
「腹いせに親父と潰してやった」
やっぱり意味がわからない。
リフォームは確かに唐突な話だが、だからって。

「ねえ鉄、一体何を怒ってるわけ？」
葵が尋ねると、持ち上げていた腰をまたドスンと落として鉄がふくれた。ふくれっ面が子どもの頃を思い出させる。

「怒ってねえけど、なんかさ」
「なに」
「俺だけなんか、ガキみてえでさ」
みたいじゃなくて子どもそのままよ、とは言わない方が良さそうだ。


たまっていた憤慨を吐き出せたのか、そこからやっと鉄は筋道をつけて、説明した。銀が語ったあれやこれや。

実家をリフォームすると思うと葵は複雑な気持ちだ。生まれ育った家にもちろん愛着がある。けれど、源の実家だって葵と光のために改築しているのだからお互い様、っていうのもおかしいわよね。

それはさておき、鉄がごねている理由はというと。

結婚はともかくとして、リフォームに行き着く前の、銀が家を出ようと考えていたことや、大工の棟梁について、ひいては自分にどれだけ大きな期待がかかっているか、どれも初めて聞くことばかりで、鉄には衝撃だったらしい。

鉄にしてみれば単に、なりたかったからなった大工の仕事だ。父の後を追いかけながら、いつかは追いつき追い越したい、棟梁になりたいとそりゃあ思っている。でも。

「銀がまさか、この家を俺に任せようと本気で思ってたなんてさ」
「押しつけるとかそういうんじゃないわよきっと」
「わかってるよ」

葵には銀らしく思えた。頭がいい分、人よりあれこれ考えるタイプだし、実はロマンチストだ。女の考えるロマンじゃなくて、男のロマン。代々の職業への憧れや自負を、銀は大事に考えているのだろう。

「俺、棟梁に、なれっかな」
鉄が小さくこぼしたのは、滅多に見せない弱気だった。

頭脳派の兄に対して、肉体派というか野生派というか、本能で正しい道を選んで突っ走るのが、鉄だ。小さい頃から父のような大工になると言い続けて、大工になってからは日々全力投球している。そんな彼にしては珍しい、弱気。

これが最後かしら。ふと、葵は思った。自分が育てたも同然の弟だけれど、これからは違う。お嫁さんが、たぶん乙女が叱咤激励してくれるに違いない。この先、鉄がすべてを打ち明けるのは自分じゃなくなる。成長が嬉しいのに、寂しいのはわがままね。

こんなに大きな図体になったっていうのに、弟ってのはいつまでも弟だ。姉がいつになっても姉なのと同じ。


母が死んだ時、鉄は葵が楽に抱けるほど小さかった。葵の首っ玉に抱きついて泣いた。幾晩も母を恋しがって、葵の布団で泣きながら眠った。寝相が悪くて布団どころか葵も蹴飛ばしながら、転がって大の字になっていた。

小学校はサッカーに明け暮れ、中学は空手に懲り、渋々行った高校では学業より資格を取るのに夢中だった。なりたい職業は大工。一度もぶれたことがなかった。

今の日高組では鉄が一番下っ端だけれど、誰もが鉄を鋼の跡継ぎだと思っているし期待している。銀の頭の良さや思慮深さ、洞察力はない代わりに、チームをまとめる統率力、職人に必要な一途さと技術力が鉄にはあった。

本人はそんなこと、かけらも思っちゃいない。大きな体を折り畳んで口をとがらせる格好は昔と同じ、悪ガキにしか見えない。見えないのに。

「なるんでしょ」
背中を押すのが、最後の役目だ。
「大丈夫、なれるわ。銀は建築士として、あんたは大工として、一番を目指しなさい」

泣くわけにはいかないから、葵は笑った。
「銀に負けるんじゃないわよ」
葵に肩を叩かれて、ようやく鉄の顔に笑みが戻ってくる。

「負ける気なんかねえよ」
「あんたはあんたの仕事を一生懸命やればいいの。これまで同様、これまでよりもっと真剣に。それでいいのよ」
「うん、わかった」

ホッとしながらも、なんだか気恥ずかしかった。時計をみたらもう十二時を回っている。お風呂に入ろうと思ってたのに。
「こんな時間？　ちょっと、もう寝なきゃ」
追い出されそうになった鉄が、なおも何か言いかける。

「待て待てって、もう一個。なあ、プロポーズってどうやんの？」

あちゃーと葵は天を仰いだ。自分が育てた可愛い弟といえ、物には限度ってものがある。正直そこまでは面倒見切れない。

「……銀に聞きなさい」
「ええー？」
「私はする方じゃなくて、される方。大体、見てたじゃない、あのグダグダな一部始終」
「そっか、そうだった。けどさあ」
さすがに苛ついてきて、強引に廊下へ押し出す。

「そういうことは自分で頭ひねって考えるの！　おやすみ！」

ぴしゃっと鼻先でふすまを閉めた。これ以上は無理とわかったらしく、情けなさそうなうなり声が向かいの部屋に消えて、はーっとため息になる。

反動なのか笑いがこみ上げてきた。これで笑ったらヒステリーだ。必死で堪えると今度は涙がにじんだ。目尻のしずくを払いながら、机に飾っている写真を手に取った。

いつも微笑んでいる顔。
亡くなって何年経とうとも、家族を見守っているに違いない母へ。

二人とも大きくなったよ。
みんな幸せになるから、安心してね。


母の笑顔が深くあたたかく、葵の心に沁みていた。





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