記憶を遡ると、背景は病室独特の白さばかりだ。
ベッドに起きあがって彼を見る女性。

「お母さん」

顔色も、彼へと伸ばされる手も、太陽など浴びたことがないような白さだった。大人ならば病的な、と形容するだろう。こどもだった彼の眼にはただ透明で清い白さで、卵形の輪郭を縁取る金色の髪にとても似つかわしかった。母と言うよりも天使のような。その美しさが嬉しくて、でも哀しいと感じたのを覚えている。


父は知らない。彼を育ててくれたのは祖父母だ。古い洋館は緑に囲まれ、そこだけ周囲とは異なる雰囲気を持っていた。戦前からの建物だというがあまり手入れをされておらず、場所によっては危険なところもあるほどボロボロだった。それでも彼にとっては唯一の家で、祖父も祖母も彼を大事に育ててくれた。

この家で母を見たことはない。物心ついたときには彼はここにいて、母は療養所にいた。歩いて２０分。高台の上に立つそこまで毎日祖父母と歩きながら、時に抱かれながら通うのが日課だった。母はいつも儚げな笑みを浮かべて彼らを迎えた。


「昨日ね、とんぼを取ったんだよ」

勢い込んでしゃべる彼の話を頷きながら聞いてくれるけれど、そのうち母は自分を通して誰か、別の人を探し始める。


「お母さん。僕の話聞いてる？」

尋ねると目を見張り、少し申し訳なさげに彼を見直す母。


「もちろん聞いてるわ。今日は蝉をつかまえるんでしょ」
「うん」

ちゃんと話を追っていることに安堵して、彼はまた別の話を始めるのが常だった。


静かな人で、自分から話すことは滅多にない。いつもどこか悲しげだった。母の笑い声が聞きたい。そう思った彼は色々なことを企んだ。カエルやバッタ、セミをつかまえて持ち込んだり、綺麗な花を摘んできたり、美味しいお菓子は言うに及ばず。祖父母とどこかに出かけた時は必ずお土産を買ってきて。


「ありがとう」

母はどれも喜んでくれたけれど、決して声をたてて笑わなかった。微笑むだけ。そしてゆっくりと衰弱していった。



小学校へ上がる前の夏、祖父母と港に出かけた。大きなその祭りに行くのは初めてだった。花火やパレードや出店。目が回るほどの人。何より彼を釘付けにしたのは、道のあちこちで見事なワザを披露する大道芸人たちだ。

おどけた格好と仕草で人気のピエロ。数人で跳んだり跳ねたり信じられない動きをするアクロバット。子ども達は風船を色々な形に作るバルーンにねだっている。手品や猿回しや南京玉すだれ。

一番の人だかりはジャグリングだった。蝶ネクタイにサスペンダーで半ズボンを吊った彼はとても綺麗なお辞儀をした。


「お集まりの皆様、さてさてどうか、ごろうじろ」

カラフルな玉や色々な形の棍棒がたかく投げ上げられてはキャッチされる。そのたびに人々が歓声と拍手。誰もが楽しげに声を上げて。

胸が痛いほどの願いが彼を貫いた。これを見せることができたら。もしかしたら母の笑う声が聞けるだろうか。起きあがることも次第に難しくなってきた母。失う時が近づいてくる。誰に言われなくても彼は悟っていた。一足一足忍び寄ってくる、死。

芸を終えたジャグラーへとたくさんのお金が投げ入れられる。やがて解ける人波の中、彼はまだ立ちつくしていた。


「坊や、もう終わりだよ」

話しかけられた彼はジャグラーを見上げた。


「僕の家に来て。お母さんの前でやって」
「お母さん？」
「病気なんだ。いつも哀しそうで。笑って欲しいんだ。」

眼に、年に似合わぬ必死さがあったからだろうか。じっと見つめたあと、しゃがみ込んだジャグラーが彼の手をとった。


「そうだな。君の手ならこれぐらいか」

道具箱の中から４つの玉を取り出す。赤、白、青、黄。


「いいかい。コツは手元をみないこと。投げた玉の行方をみてるんだ。そのうち落ちる場所がわかるようになる。あとは練習だ」
「これ？」
「坊やにあげよう。頑張って練習して、お母さんに見せてあげな」
「……僕が？」

「いいかい。お母さんを笑わせてあげるのは君だ。君がやるんだ」
「お母さん、笑ってくれる？」
「ああ。きっと」
「……うん、ありがとう！」

自分があんな風にできるなんてとても思えなかった。でも。ジャグラーがきちんと彼の話を聞いて、言ってくれたのが嬉しかったから。


やってみせる。
人生で初めての誓い。


その夜から彼はひたすら練習した。寝る間も惜しんだ。本能が告げていたから。残り時間の少なさを。


「お母さんに見せるんだ」

そう言ったのは４色の玉を片時も離さない彼を祖父が叱った時だ。以来二人とも何も言わなくなった。早く巧くならなきゃ。巧くできたらきっと笑ってくれる。大きな声で。

良くなったり悪くなったりを繰り返しながら母は少しずつ弱っていった。冬が、寒さがさらに力を奪い取る。すでに誰の目にも明かな事実だったが、迫り来るものと彼は戦い続けた。



久しぶりに起きあがることを許された母は枕にもたれていた。病室に入った彼は祖母に着せてもらった白いシャツと蝶ネクタイに半ズボン。

背筋を伸ばしてベッド脇に立つと、できるだけきちんと礼をした。あの、ジャグラーみたいに。


「それでは、ごろうじろ」

目を丸くしている母の前で。
初めは赤、それに青、やがて白、ついには黄。

４つの玉が次から次へと彼の手から宙へ踊り続ける。巡回の看護婦も通りがかった見舞客も医者も、皆が足を止めるほど見事に。全てを受け止めたあと彼がお辞儀をすると、わーっと歓声が上がった。


「すごい」
「うまいじゃない」
「プロみたいよ」

だが彼に聞こえたのは手を叩き興奮している母の、初めての笑い声だけだった。


「すごいすごいすごい。すごいわ。すてき！」

少女のようなはしゃぎ声は鈴のように心地よく耳に響く。

そうだ。
こんな風に大きな声で笑って欲しかったのだ。


会心の笑みを浮かべていた彼の、視界がなぜか歪んだ。驚く母の顔も歪んでしまう。あれ。どうして。玉を持った手が濡れる。涙で。
「頑張ったものな」
祖父の声。背中を押したのは多分祖母の手。近づくと母がオロオロしている。


「どうしたの？　どこか痛い？　どうして」

泣くまいと目をこすったらつかまれた。


「ねえ、この手」

朝から晩まで幾日も玉を投げ続けた。指先は皮がむけて小さな手はどちらも傷だらけで。


「おまえの、喜ぶ声が聞きたかったんだよ」

祖父の言葉に母が一瞬震え、それから彼を抱きしめた。ギュッと。細い腕。細い体。今にも消えてしまいそうなのが不安で。でも抱きしめてくれるのが嬉しくて。涙が止まらない。

母が呼ぶ。


「あさと」

返事ができない。


「ありがと麻人。素敵なクリスマスプレゼントよ。ありがとう。大好きよ」


僕を呼んで。抱きしめて。遠くに行かないで。
叶わないならせめて。
笑って。


　　I　wish　Your　Merry　Christmas−





ハッとキングは眼を開けた。

Man　Hall　のオフィス。イブの営業も終わって誰も残っていない。短い仮眠で夢を見るのは珍しかった。どうしたことか。首を振ったキングは、時計を見て腰をあげた。行かなくては。連中が待ちくたびれる。


デスクの上に白と赤と緑を調和させた鮮やかな花が飾られていた。 赤い薔薇に結ばれたカード。メッセージとサインは直筆。

「　TO　KING　　I wish　your　Merry　Christmas！　You＆Ayame　」


クリスマスのたびに届けられるようになった花。彩芽はともかく右生がどんな顔で書いているのと思うと。すでに例年行事だというのに見てはにやつく自分に苦笑しながら、キングはドアを出た。



誰かの幸せを願う、それが幸せなのだと。
母が、ジャグラーが。
教えてくれたクリスマスは、彼に喜びをもたらし続ける。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　x’mas02　　I　wish…　／　end　＞