寄宿学校の中にある礼拝堂は、静まり返っていた。
ベンチの端の中央通路側に腰掛け、荻おぎ　は祭壇のマリア像をみつめている。


荻のかつての人生に、信仰の入る余地などなかった。生きることで精一杯。善悪に躊躇していたら命も危うい。

そんな境遇を、子どもながらもしたたかな才覚でなんとか渡っていた。これからもなんとか生き延びてやる。せいぜいその程度の見通ししか持っていなかったのに。

冷たいマリア像の顔に彼女が重なると、急に暖かみを帯びて見える。
微笑みすら感じる。

のばら。
彼女に出逢ったのは誰のおかげだろう。

今、荻は全寮制の高校に通っている。のばらが通わせてくれているのだ。生意気なストリートチルドレンから信用を勝ち取ったのばらは、それだけでは満足せず、荻の人生までも変えた。

「あなたの努力で何にでもなれるのよ」


空があることも知らなかった荻に、光を届け空を見上げさせ、チャンスをくれた。楽ではなかったが、楽だとも言われなかった。

「色々あると思うわ。私があげられるのはチャンスだけ。その先はあなた次第。でも、あなたならできるって、私は信じる」

あの深い漆黒の瞳には、魔法がある。
たとえ十五の子どもだって、男ならあの目に恋をする。


荻に、のばらは一年の準備期間をおいた。基礎の学力をつけさせ、彼にふさわしいレベルで最上の学校を探してくれた。ミッション系のここを見て、最初はびびった。

「俺、賛美歌なんか歌えねえよ」
「歌いたくなければ歌わなくてもいいってば」
のばらは全く動じなかった。

「でも荻、神様はいるわ」
「なんでわかるのさ」
「私とあなたが出逢えたんだから」

そう言われたら言い返せなかった。


最初は辛かった学校だが、予想よりもずっと楽しい場所になった。同級生はいい奴ばかりでも、嫌な奴ばかりでもなかった。やがて友達もできて先生たちとも慣れた。授業が面白くなり成績も悪くない。荻はようやく、自分が何かになれるかもしれないと思い始めている。

彼女のおかげで。


去年、入学して初めてのクリスマス休暇は腐った。友達は家に帰るけれど自分に帰るところはないと。けれど、のばらは迎えに来てくれた。パスポートまで持って。

「日本に行くわよ」

わけがわからないうちに飛行機に乗せられ、初めて海を渡って日本へ行った。そこで、のばらの家族に会った。小さくて優しい日本人形みたいなおばあさん。のばらの甥っ子の颯そう　は生意気で反抗的なガキで、姪っ子のささらは天使みたいに可愛かった。

ツリーとプレゼントとケーキ。夢のようなクリスマスとニューイヤーを過ごした。その後、もう休暇は怖くなかった。夏休みには自分で選んだキャンプに行ったし、アルバイトもしたっけ。


昨日から、入学して二度目のクリスマス休暇だ。
のばらはもうすぐ迎えに来てくれる。


『神様はいるわよ』


寄宿学校では礼拝とともに、賛美歌もお決まりだ。けれど荻は口パクばかりで、ちゃんと歌ったことがない。人前じゃ気恥ずかしいし。でも。

マリア像にのばらが重なるから、誰もいないから、小さな声で口ずさんでみる。ここで初めて覚えたフレーズを、祈るように。

神様がもし、ほんとうにいるなら。


「おーぎ？」

心臓が胸から飛び出した気がした。
振り向くとそこにいる、荻のマリアさま。

「のばら？　午後になるって」
「早いのがとれたから。お待たせ」

彼女の広げた両腕に荻は飛び込んだ。
ぎゅっと抱きしめられて、彼女の香りを吸い込む。

「会いたかったあ」

いつだってそう言ってくれる。
言いたくてもいえない、自分の代わりに。
神様はいるかもしれない。
いるのだととしたら。


主よ。
主よ。
御名を讃えん。


荻の耳に、どこからともなく賛美歌が聞こえていた。





　　　　　　　　　　　　　　＜　sing　Hymn　song　 ／　end　＞