少年たちをローズがなだめる間、ひとまずと、彼女の祖母が二階の一室にツタを案内してくれた。ベッドをてきぱき整えながら、申し訳なさそうに詫びを繰り返す。

「ごめんなさいね。あの子たちはそれぞれ辛い経験をしていて、のばらをすごく頼りに思っているの。突然あなたが現れたから焼き餅というか、不安になったんだわ」

彼らの気持ちを的確に読みとっていることに感心する。
その一方で確かめたくなる。

「あなたは構わないのか？　彼女の相手が俺のような奴でも」

じっとツタをみつめて、彼女はにこっとした。
「いい選択だと思うけれど」
「……どうして？」
正直、びっくりだ。

「自立していて、乱暴な子どもや私のような年寄りにも優しくて。何よりあの子を大事に思ってくれるんだから、十分でしょう」

言葉よりも表情に気持ちが表れていて、ツタの胸がじんと熱くなった。

「マム。お願いがある」
「私に？　なにかしら」
「あなたを抱きしめさせてほしい」

目を丸くしたのは一瞬で、彼女はあっさりと両手を広げた。自分の半分も背のない小さな体から感じる温かさに、不思議と安らいだ。つい弱音をはいてしまうほど。

「ローズは俺を、受け入れてくれるだろうか」
ぽんぽんと小さな手に大きな背中を叩かれる。

「あの子はあなたが好きよ。でも、ずっとひとりで頑張ってきたから、いざとなると後込みしてしまうんだわ。それとも」
「それとも？」
ふっと彼女の顔が陰った。

「ほかにも何かあるのかしら。辛いことは私にも言わない子だから。誰にも言えなかったのかもしれない。強さは時に、孤独ね」
少し迷って、それからツタを見上げてくる。

「後込みするのは、受け入れてもらえるかどうか不安だからよ。受け入れて下さる？　いいことも悪いことも、あの子の全てを」

それこそツタの望むところだった。
彼女の小さな、骨ばった手を包み込む。

「必ず」
「約束してね」
「イエス」
「あの子もいずれそう言うわ、きっと」

そうであって欲しいと念じた時、ノックの音がした。ドアを開けたローズが、ふたりを見て、ためらいがちに言う。

「下でツタと話したいと思って。邪魔だった？」
邪魔なわけがない。

荷物から取りだした包みをポケットに入れて、ツタはローズを追いかけた。振り返ると、部屋の外で祖母が見送っていた。


連れて行かれたのは、ツタが最初に案内されたあの気持ちのいい部屋だった。開いたカーテンから夕風がふわりと抜けていく。薄暗がりに包まれると、さっきとは違う部屋に見える。

ローズが内カギをかけた。その意味を考えながら聞く。
「彼らは納得したのか」
「大丈夫。いい子なのよ、どっちも」

そう言いながら窓辺まで歩いたローズが、ひるがえったレースのカーテンをつかんで、振り返った。その顔が青白い。

「さっきはごめんなさい」
「何のことだ」
「初めてのプロポーズを台無しにしちゃって」
「台無しにしたのか？」
そのつもりがないのに尖った声音を、なんとか丸くしようとする。

「俺がそう思うのは、断られた時だ。台無しにしたいのか？」

彼女がうつむいた。威嚇するんじゃないと自分に言い聞かせたが、成功したとは思えない。彼女が再びあげた顔に決意が漂っていて、焦る。

「嬉しかったわ」

そう聞いて鼓動が踊った。
手を伸ばすのを思いとどまったのは、変わらぬ表情のせいだ。

「でも結婚は考えていなかった。専属のボディガードと言ったのは、そのままの意味だったのよ。そばにいてくれさえすれば」
「なぜだ」
当然の疑問だった。
「君の年齢なら女性が先に考えそうなのに。結婚したくないのか」
「そうじゃないの」
「だったら」
「返事をする前に話しておくべきだと思ったから」
「何を」

彼女は口を噤んだ。じっとツタに注ぐまなざしは強くて、はかない。
はかなくて、強い。

「七年前に手術をしたの」
「手術？　手術って……病気なのか。何の」

心臓が止まるかと思った。落ち着け。七年前だろ。
だが衝撃は続く。

「子宮頸けい　ガン」

耳を疑った。ガン？　ガンだって？　鼓動が乱れ打ちを始める。
ひきかえ、ローズの声は冷静になっていく。

「アメリカで勤めている時だったから、家族には話さなかったの。心配させたくなかったし。会社で定期検診を受けていたおかげで、ゼロ期でみつかったのも運が良かった。……それでも取るしかなかったけど」
「ガンを？」
また口を噤みかけ、けれどローズは言い切った。

「子宮を。全摘したの」

その声から冷たい雫が滴っている気がする。

「私はもう、子どもを、産めないわ」

すぐには言葉が出なかった。その選択が彼女にとってどれほど辛いものだったか、推し量れないほど愚かではない。女性だからこその喜びをもぎ取られる。ローズの苦しみ悲しみは、男のツタには想像もできない。
ふと、気になったことが口をついた。

「君が、荻を養子にと考えたのは」
ローズの振ろうとした首が、そのまま傾いだ。

「彼という人間に心惹かれたつもりだった。それきりにしたくないと、でも。本心はどうなのかしら」
考え考え、言葉を繋げる。

「ガンにならなくても、手術をしていなくても、荻を家族にしたと思いたいけれど、わからないわね。結局、私のエゴなのかもしれない」
「エゴで悪いのか？」
ツタの問いにローズが目を上げる。
「エゴでも同情でも、簡単にできることじゃない」

本心だった。だがツタにとって、大事なことは別にある。
そうだ、ガン。
日本に来る前の、心臓をつかまれるほどの恐怖が甦ってきて、すごい勢いで詰め寄った。

「それで君は？」
「え？」
「完治したのか。それとも治療中なのか？　どうなんだ」
見張ったローズの目元は少しだけ氷が溶けて、微笑んだ。
「七年前よ？　完治と言っていいんじゃない？」
その答えに緊張がゆるむ。

「ほんとうに？」
「検診は欠かさないようにしているし」
「良かった」
ツタはようやく安堵し、言い足した。
「この先、もし病気になったら俺が支える。心配ない」
「……それだけ？」
今度はローズがのぞき込んできた。疑わしげな目の色だ。

「聞いてたの？　私は子どもを産めないのよ」
「ああ。辛い決断だったな」
「だから結婚は」
「子どものために結婚するんじゃない。そもそも俺が、子どもをほしいと言ったことがあったか？　子どもどころか、結婚だってする気がなかったんだ。知ってるだろう」
「だって」
当惑した顔で彼女が口ごもる。
「……さっき、荻を抱いたあなた、父親みたいだったもの」
そんなこと言われても、自覚はないし嬉しくもない。
なのにローズは言い募る。

「あなたは望めば父親になれるのよ。私とでなければ」
「俺は、君に、プロポーズしたんだぞ」
とうとう腹が立ってきた。
「そっちこと聞いてたのか？　結婚なんて考えていなかった。したいと思ったこともなかった。君が俺を変えたんだ。君でなけりゃ、意味がない」
「ツタ」
「俺がほしいのは君だ。子どもが産めない？　だから？　君はもう自分の子どもを、荻を見つけてる。甥っ子や姪っ子も可愛がっている。素晴らしいことじゃないか」

ローズがツタを見つめた。
その目が少しずつ満ちていく。濡れて溢れていく。

「それほど辛い経験をしたなんて微塵も感じさせなかった。それどころか先へ、どんどん前に進み続けている。俺の過去も吹っ飛ばしてくれた。そんな女が他にいるとでも？　君が、君だけが、俺の望みだ」
ごまかしでもなければ、取り繕ったわけでもない、ツタの本音だ。

「君がいれば何もいらない。辛い昔より遠い未来より、君と歩く今日が欲しい。ふたりで作る明日が」
とうとうローズの目から涙がこぼれた。かまわず続ける。

「一緒に、生きてくれ」

言い切らないうちにローズが抱きついた。
彼女の声が、言葉が心地良い。

「イエス。イエスイエス。あぁツタ、私も愛しているわ」

その力強さがツタを安心させた。大丈夫、ローズは死なない。
ふたりで進んで行くんだ。今日も、明日も。

「俺も、愛してる」

抱き合い口づけを交わすと、もう我慢できなかった。部屋にはカギがかかっている。ハレルヤ。
ローズも拒まなかった。


一ヶ月ぶりの逢瀬を、あの寝心地のいいソファでかわし、ローズと横たわるのは、この上なく幸せだった。そこでふと思い出す。手を伸ばし、ジーンズのポケットからまず、あのブローチを取り出す。まどろみかけていたローズに差し出した。

「返すよ」
「……これはあなたにあげたのよ」
「愛した男が、君にくれた大事なものだろ。もらえないさ。……そのうち、そいつの話も聞かせてくれ」

はにかんだ顔でうなずいてローズが受け取る。その手のひらにもう一つ、不格好な包みを乗せた。ローズが怪訝な顔になってツタを見上げる。

「ほんとうならここで指輪を渡さなきゃいけないんだが、あわてて飛んできたから、これで勘弁してくれ」
「あわてて？　そういえばどうして突然来てくれたの？　何か……まあ！」
起き上がって、膝の上で包みを開いたローズが、小さく声をあげた。

ローズの手のひらに収まる大きさの巻き貝だった。あの海で見つけたのより、もっと綺麗なものだ。真っ白な表面は細かい塩のような手ざわりだ。つんと尖った先へと淡い桜色のラインがくるくる巻いていた。ローズが目を輝かせるので、嬉しくなる。

「子どもたちにやらないでくれよ。これは君のために取ってきたんだから」

ぶんぶんと首を横に振ってから、貝とブローチを両手に、もう一度首っ玉にしがみついてくる。彼女の肌はほんとうに気持ちがいい。

「ありがとう。嬉しい。あぁもう、どうしよう」
「どうしよう？　お礼なら決まってるだろ」
「ツタ」

口づけでまた火がつく。
いざ第二ラウンド、と思ったら、激しいノックに遮られた。

「のばら？　おばさん！　夕飯だって！」
「なんで鍵なんか。開けろよ畜生。　蹴破れ、颯！」

冗談じゃない。
自分はともかく、ローズがぎょっとして叫ぶ。

「だめ、やめて！　すぐいくから！　向こうで待ってて！」
「ほんとだよな？」
「早くね、おばさん」

遠ざかる話し声を聞きながら、あわてふためいてローズが服を掻き集める。やれやれと頭をかき、ツタもあきらめて起き上がった。ふたりともなんとか身支度を終えるが、ここには鏡がないので、ローズが心配する。

「ねえ、おかしくない？　颯はともかく荻は勘がいいから」
「とっくにばれてるって。気にするな」
「ええ？　うそ！　やめてよ」

困ったように叫びながらも、ローズは大事そうに貝殻を胸に抱いた。無意識なんだから敵わない。見つめるツタの胸が締め付けられる。

ほんとうにつかまっちまったな。

ローズが微笑んだ。やっぱり涙がにじんでいる。
「さあ、急ぎましょう」


手を繋いで歩き出そうとしたら、彼女にキスされた。塩辛くて甘いその味は、今まで知らなかった不思議で幸せな味だった。





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