夏の日差しも生い茂る枝で遮られ、そこここに木陰がある。広くはないが、この庭にはのばらの思い出があふれていた。

時にひとりでさまよい、時にすみれや祖父母と語り合った。ここで開いたすみれとアラシの式は、のばらが初めてプロデュースしたものだ。幸せそうなふたりが今も目に浮かぶ。

その場所をツタと歩くなんて、思ってもみなかった。
「いい庭だ」
ツタが辺りを見回して言った。お世辞ではない口振りが、嬉しい。

「家と同じだ。古いが、きちんと手入れがされている」
「ありがとう。私の生まれ育った場所だから」
「こんな場所で育つことができたら、幸せだろう」
独り言にも聞こえたが、そのとおりだったから、のばらは素直にうなずいた。ツタにまっすぐに見つめられ、身構える。

「まさか未成年とはね。オギは君の、なんだ？」

肩すかしをくらった気がしたが、彼の誤解を解かずにいた自分が悪い。弁護士と祖母にしか話していない決意を、のばらはツタに告げた。

「今は後見人だけど、じきに養子にするの」
「養子って君が？　親は」
「亡くなったらしいわ。ニューヨークのストリートチルドレンだったの」
ヒュウとツタが口笛を吹いた。だが表情は厳しい。

「だからってどうして君が？　簡単にできることじゃないぞ」
簡単じゃない。でも意味はある。

「そうしたいからよ」
「路上にいた縁もゆかりもない相手を？」
「全ての縁は出逢いから始まるの。言ったでしょ、大切な出逢いがあれば人生は豊かになる。荻はもう私の家族だし、法的にもそうするわ」

のばらにとっては荻を養子にするのは決定事項だ。それがツタにとって障害になるなら、先に告げた方がいい。さっきの言葉を確かめる前に。

「彼を迎えるために日本へ戻るほど、大切なんだな」
皮肉にも負けない。
「大切よ」
「これから君の人生には洩れなく彼が付いてくるってわけか」
「ええ」

堅苦しい口調に心が沈んだ。やっぱりさっきのは気のせいだった？　そう思おうとした時、彼が高らかに笑いだした。明るい響きにすくいあげられるように見上げると、笑いすぎてせき込んでいる。

「ツタ？」
「……全く。君は勝利の女神みたいだ」
「そんなことないわ。私は何度も敗北してるわよ、いろいろなことで」
「なのに怖れず突き進む。負けることが怖くないのか？」
「怖いに決まってるでしょう？　でも、勝ち負けより、自分が信じる道を選びたい。負けて何かを失っても、その先へ進み続けるために」

のばらにそう教えてくれたのは、アラシとすみれだった。悩み苦しみ、傷ついた選択だったけれど、今も後悔はない。

地獄と思った場所も、たとえ天国と思った場所でも、人は同じ処に永遠に留まってはいられない。進まなくてはならないのだ。生きることはたぶん、楽園の向こうを目指すようなものかもしれない。いつもその先へ。

「……やっぱり勝利の女神だな」
思いにふけっていたら抱きしめられた。今度こそ確かめよう。のぞきこんだ彼の顔は珍しくためらって見えた。

「ストリート育ちをもうひとり、加えてくれるか」
「……え？」
「君の横で君と歩きたい。楽園でも地獄でも行き先なんかどこでもいい。君となら」
のばらの胸で喜びがつぼみをつけた。

「専属ボディガードになってくれるのね？」
「できれば人生のパートナーがいい」
「……同じ意味でしょ？」
「君の答えによる」

手を握った彼がひざまづいたので、ギョッとした。
まさか、まさか？
「人生で、決して口にしない言葉だと思っていたのにな」
おかしそうに口元を歪め、それから真顔になる。まなざしは真剣で、当てられた視線で焦げそうな気がする。

「愛してる」
聞きたかった言葉だ。しかしそれで終わらなかった。
「俺と結婚してくれ」
思わず後ずさりそうになったが、ツタの手が引き留めた。青ざめているに違いない。ツタが苦笑している。

「喜んでくれないのか？　そばにいろって言ったのは君だぞ」
「だだだって、だって荻がいるのよ？　甥や姪や祖母も」
「大切な出逢いが人生を豊かにするんだろ。俺も君の家族になりたいんだ。法的にも」
ついさっき、自分で言った台詞だ。反論できない。したいわけじゃないけれど、でも。

「返事をくれ。正真正銘、人生で初めてのプロポーズなんだ。びびって震えてるんだぜ」

冗談めかしているけれど、その言葉は嘘じゃないとわかっていた。感情はイエスと連呼している。全てを蹴散らして彼へ飛び出そうとしている。なのに理性が、がっちりした鎖でのばらを押さえ込んでいた。

どうしよう、どうしたらいいの。もし、もしかしたら、でも。
ああだめ、結婚なんて。彼は知らないんだから。
けれどノーとは言いたくない。

或る意味、のばらの窮地を救ったのは、荻と颯だった。

「おばさんの手を離せーーーっ」
「のばらから離れろっ！」
「うわ」
「きゃあっ」

ひざまずいていたツタは荻にタックルされ、のばらは颯に後ろからひっぱられて、ふたりとも芝生に転んでしまった。荻はそのままツタにつかみかかっている。殴っている？　あわててのばらが止めようとするが、颯が腰にしがみついて離そうとしない。

「ちょっと、颯！」
「だめだ、おばさん」
「畜生、畜生、のばらを渡すもんか」
「やめろ、おいっ」
焦った。ツタが本気で怒ったら、荻なんてすぐこてんぱんなのに。

だが、馬乗りにされてもツタはおきあがろうともせず、顔をガードするだけだった。不思議に思ったのばらが、ツタの腕に落ちる雫に気づく。

涙？
荻が？

「畜生！　おまえなんか、おまえなんか消えちまえ！」
「……荻」
「おばさん、いなくならないで！」
「颯？」

しがみついている颯を見下ろして、遅ればせながら、のばらは気づいた。彼らの本心、不安に。荻はようやく定まった家族と家を得たばかり。颯だって、両親を失った悲しみが少し薄らいだところだ。

ふたりを、家族を、守ると決めたのに。
私は荻も颯も、不安にさせてしまったんだわ。

申し訳なさで胸がいっぱいになる。ずいぶん大きくなった、けれどまだまだ少年の颯の頭を、のばらはそっと撫でた。

「いなくなったりしないわ。私はずっとあなたの、あなたやささらのそばにいるから」
見上げてくる颯にすみれの面影が重なって、苦しい。
「ほんとに？」
「ええ、ほんとよ」
「……ごめんなさい、僕は」
「いいのよ、颯」
のばらのしがみついたままで颯がすすり泣く。

「畜生ーーっ」

吠えるような声に顔を上げると、荻だった。さっきまで殴りかかっていたツタの胸に顔をうずめて、泣きじゃくっている。ツタがなだめるように抱きしめ背中を撫でてやるのを見て、のばらの胸が高鳴った。

「ツタ」

こっちを見て苦笑する彼に、胸を撃ち抜かれた。
前よりも鋭く、前よりも深く。
どうしようもない。これまでのどんな彼よりも、今の彼を愛している。
のばらは覚悟を決めた。

逃げてはいけない。
全てをさらけだそう。結果がどうなろうとも。

「あらあらあらまあ」
「ぎーっ？」

ささらの覚束ない足音に、祖母の声が重なる。
蝉がやけに高い音を、空へと響かせていた。





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