車のトランクを閉めたのばらは、空を仰いだ。暑い暑いと思っていたのに、秋は忍び寄っている。夏が遠ざかる。恋した夏がいってしまう。

子どもたちは家に着いたとたん、徒競走のピストルが鳴ったみたいに車から飛び出していった。あんなに遊んだあとなのに、昼寝で元気が戻ったようだ。

海ではふたりともまるで魚のように泳いでいたっけ。潜っては貝を拾ってささらにやって。ツタもそうだった……あぁ、やっちゃった。のばらは思わず舌打ちした。

帰国してすぐ荻を迎えた。仕事と荻、子どもたちのために時間を費やし、意図的にツタのことを考えるまいとしてきた。

このまま避けきれるかと思ったのに、どうやらこの辺が限界らしい。押さえつけていたフタがとれたみたいに、一月前の出来事があふれてくる。

でも。
伝えるべきことは伝えて来たんだし。

もしかしたらと、密かな期待も抱いていた。もしかしたら追いかけてきてくれるかもって。彼がのばらの連絡先を知らなくても、その気があればいくらでも調べられる。

「結構ずるいわね、私。素直じゃないわ」

苦笑したら力が抜けた。
彼は来ない。こんなに逢いたいのに。

次に逢うまでなんて言わなきゃよかった？　ううん、伝えたことは嘘じゃない。彼が世界のどこかにいる。思うだけで心が震える。そういう人をみつけたことを喜ばなきゃ。

いっそ来年の五月までこの気持ちを発酵させてみようか。アンジーとシオンの式でとびきり素敵に装って、彼をその気にさせる。そうよ、今度は逃がさない。覚悟してなさい、ツタ。

ツタ。

感傷がまた押し寄せて、意味もなくトランクのふたを押しつけた。彼が恋しい。声が聞きたい。低い豊かな声で、名前を呼んで欲しい。

「ローズっ」
そう、その声で……空耳？

振り向いたら、大きな体に抱きしめられた。飲み込まれそうな勢いで深いキスを浴びせられ、酔った。そうよ、これよ。この大きさと激しさ。のばらは決して背が低くないのに、抱き寄せられてサンダルが浮く。

ああ、すてき。本物だわ。
本物のツタに抱きしめられている。

「ぃしてる」

夢かしら？　錯覚？　すごく大事なことを聞いたような。もう一度、と言いかけてまた唇を塞がれた。誰かが何かを叫んでいる？　気のせいだわ、どうでもいい。それよりもお願いだから、もう一度。

「っっばらぁああああっ」
「んっっ、んぇっ？」

ツタに抱かれたままくるっと体を振り回された。あわてて彼にしがみついたら、誰かが植え込みに突っ込んだような音が聞こえる。

「いってえええー！」
あれは。
「おぎ？　っっきゃあ」
また体が回った。すり抜けて転んだのは、颯だ。
「くそおっ」
「颯、こいつ手強いぞ」
「おばさんから手を離せ！」
「そうだ、のばらに触るな！　気安くキスしやがって！」

あらら。

ようやく状況が飲み込めたが、ツタにはわからないだろうし、だからって彼が子ども相手に遠慮するわけもない。のばらを抱きしめながら二人を観察して首を傾げている。

「甥っ子はひとりじゃなかったのか？」
「そうよ」
「ふたりいるぞ」
そこにヨタヨタと別の足音がする。
「ぎいーーっ」
「ささら、こっちに来るなって」

颯が注意しても聞くはずがない。ふわふわの猫っ毛に短めのロンパースの格好で、愛しの荻を目指して駆けてくるささらに、ツタの目が柔和になった。のばらはつい得意気に言う。
「あれが姪っ子。可愛いでしょ」
「プリンセスだな。先が楽しみだ」

彼が笑ったのが、おかしいくらい嬉しかった。ゆるんだ口元に、ツタがまたキスをしようとして、蹴られた衝撃でよろめいた。荻だ。ささらをつかまえた颯が祖母のところへ走っていく間も、荻はツタの背中を叩き、足を蹴り続ける。

「だから！　のばらから離れろって、この！」
「おばさんを離せーーっ」

颯が勢い込んで戻ってくる。少年二人の攻撃など、ツタにすれば痛くもかゆくもなかろうが、それと苛立ちは別だ。ツタがのばらから手を離した。まずい。
「ツタやめて。あなたたちも、やめっ……だからもう」

あっというまにツタは二人を組み伏せていた。あわてて止めに入ろうとするが、サングラスをはずした彼の目つきに立ち止まる。荻が、颯も叫んでいる。
「畜生、どけ！　どけよ！」
「そっちが悪いんだ！　おばさんにキスなんかするから！」
ツタの眉があがり、のばらが焦っていると、場を収めたのは祖母だった。

「あなたたちったら、どうしようもないわね」

荻も颯も、のばらもツタまで口をつぐんだ。その声には威嚇はないのに、叱られていることを明確に悟らせる威厳がある。ささらをのばらに渡すと、祖母は恐れることなくツタに話しかけた。

「ミスター・クライン。ごめんなさいね。恥ずかしいったら」
「おばあちゃん！」
「グラン・マ！」
抗議の声は見下ろされて消える。

「その子たちを放していただけるかしら？　その格好じゃ叱れないから」

ツタがあっさり腰を上げた。飛び起きた荻がまたとびかかろうとするのを、押さえたのはさらに厳しい祖母の声だった。

「やめなさい、荻さん」
「……オギ？」
ツタが驚いた声で繰り返し、のばらを見た。それをよそに、祖母は淡々と荻に、颯にも言い聞かせる。

「この方は大事なお客様ですよ。なのにあなたたちときたらなんてお行儀なの。恥ずかしいったら」
「でもおばあちゃん」
「大事なもんか。そいつ、のばらにキスしてたんだぞ」
祖母にも見られてたんだわとひやっとするが、祖母はあくまでも祖母だった。
「そうよ。だからよ」
並ぶと自分より背の高い荻に、祖母は真実を言い当てる。

「嫌だったら、のばらがキスさせているものですか」

ぐっと言葉を詰まらせた荻が、のばらを振り返った。嘘はつけない。つくつもりもない。のばらはじっと二人を見返した。詫びるのでなく、伝えたいのは愛の形だ。二人のことも愛しているから。

「荻、颯、あのね」
「認めない。認めるもんか！」
言い捨てた荻が駆けだした。颯も追いかける。見送ったのばらの胸が痛んだ。どれだけ愛していても、全てを叶えてやることはできない。

「……彼が、オギ、なのか？」

ツタの声で、のばらの胸にどっと、感情が固まりになって押し寄せた。おかしさとうれしさ、申し訳なさと悔いと安堵。ささらを抱きしめて、それに耐える。

彼に確かめたいことがあるのに。

「ミスター・クラインに庭を案内したらどう？」
いつのまにかそばに来た祖母がささらを抱きとると、ツタを見上げた。きっぱり毅然とした態度で。

「この子は私に残された大事な孫よ。粗末に扱わないで下さいね」

驚く二人を残してさっさと家へ戻っていく。ツタがのばらに感心したように言った。
「優しいのに怖い。素敵な女性だ」
「そうでしょ」

祖母に心から感謝して、のばらはツタを庭へ誘った。





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