ツタは怯えていた。
恐れてもいた。
長い軍隊生活でも、ボディガードになったあとだって、これほどの恐怖は経験したことがない。

前線では何度も死ぬ覚悟をした。実際に死にかけたこともある。かろうじて命を拾ったことも数え切れない。九死に一生どころか、百回ぐらいは死んでいてもおかしくない。

そもそも、命を惜しんだことがないのだ。マリアが死んで、生は死までのインターバルでしかないと思った。怖くなかったから、生き延びられた。そんな自分が怯えている。恐れている。

焦っている。

日本がこんなに遠いとは思わなかった。広い大海原の上を飛ぶ時間が長すぎる。自分を自分で罵った。おまえはバカだ。大バカだと。


電話口のアンジーがどれほど大声で叫んでも、ちっとも意味がわからなかった。言葉は頭の中で断片的に散らばるだけで。

「聞いてるの？　ローズが事故に遭ったって！　重傷かも、死ぬかもしれない！　どうするの、ツタ！」

ローズ。
事故。
重傷。
死？

ローズの命が危ないってことか？　また何かやったのか？　いや、わかってたじゃないか、彼女は絶対何かしでかすって。

なのに関係ないと思った。夏のアバンチュールが終われば、彼女のことを全部忘れられる。何があろうと気にしない、そう信じていたなんて、大バカだ。

別れて一ヶ月も経つのに気にしないどころか、四六時中、彼女のことばかり考えていたくせに。彼女の夢ばかり見ていたくせに。意地を張って動こうとしなかった俺への、これは罰か？

そんなはずはない。俺への罰で、ローズが死ぬなんておかしい。死ぬなら俺だ。俺が死んだって誰も悲しまないんだから、ローズはもっとずっと、いつまでも生きるべきだ。畜生。

神なんか信じていない。信じていないが、もし、万に一つもいるっていうなら、ローズを死なせたりするな。そんなことしたら天国だろうと地獄だろうと怒鳴りこんでやる。神でも悪魔でも知ったことか。

怖いものはない。
なかったんだ。ローズに会うまでは。

畜生、もっと早く飛べないのか、この飛行機は。操縦席に座るわけにもいかない。眠ることもできない。ただイライラして、シートベルトで座席に自分を縛り付け、手すりを握りしめることしか。


アメリカを発って日本に着くまで、空港からタクシーに乗ってからも、ずっとその調子だった。ローズの家に近づく頃には、さすがのツタもヘトヘトだった。

運転手もへとへとだろう。図体のでかい黒ずくめの外人が後部座席でぴくりとも動かないで、サングラスの奥から不穏さな空気を放っているのだから。だがそんなのはツタの意識外だ。

窓の向こうに流れるのはきれいで整った町並みと、細く曲がりくねった道だ。ここが日本か。ローズの生まれた町か。生まれて、死ぬ町？

違う、そんなはずはない。まだ着かないのか。外人だと思って遠回りしてるんじゃないだろうな、この運転手。

ツタの気配が凄みを増す。察知したかのようにタクシーが止まった。メーターの数字を確認して、両替してきた札を多めに突き出す。

「お釣りを」
「いらん」

飛び出したツタの後ろで、タクシーはすぐに発車した。気が変わるのを恐れたのだろうか。恐れるのがそれくらいなら安いものだ。


大きな門のある家だった。庭も家も古いが、きちんと手入れがされている。ローズに似つかわしい家だった。玄関まで走ったが、インターホンがない。ノックしてから扉を開けると、「はぁい」と柔らかい声が応えた。

「お待ち下さいね」

現れたのは、着物を着こなし白い髪を結い上げた老婦人だった。日本人形に年をとらせたら、きっとこうなるにちがいない。上品できりっとした美しさに思わず見とれる。

「外国の方かしら。ごめんなさいね、私、英語はできないの」

怪訝な顔をされ、あわててサングラスをはずし、日本式に頭を下げる。日常会話ができてよかった。

「マダム。俺はツタ・クライン。アメリカからローズに会いに来た」
「まあ日本語がお上手なのね」
笑顔が素敵だ。どこかローズに似ている。

「失礼だが、あなたは」
「のばら……ローズの祖母です。あの子に会いにいらしたのね？」
「そう、そうだ。ローズに会わせてほしい」
「まぁごめんなさい、朝から海に出かけていて」
勢い込んだら、見事なほどの肩すかしをくらった。瞬きする。

「う、み？」
「子どもたちをつれて遊びに」
「sea？」

なんとか自分を落ち着かせようとした。事故にあって大けがをした人間が、海に遊びになど行くまい。重傷だったらなおさらだ。ローズの身内がこんなのんきにしているわけもないし。

「……その、ローズは元気、ですか？」
「ええもちろん。相変わらず忙しい子ですけど。ミスター・クラインとはどこでお知り合いに……あらら？」

見栄もなにもない。力が抜けたツタは、その場にしゃがみこんだ。

悪いのは誰だ。アンジーか？　いやあれは芝居じゃない。誰かがガセネタを吹き込んだに違いない。絶対に絶対に突き止めてやるからな。

ローズの無事を確認したあとで。
抱きしめて、確かに手に入れたあとで、だ。

「ミスター？　大変、具合が悪いの？」
見上げると、老婦人が心配そうにのぞき込んでくる。その顔に紛れもないローズの面影があった。

「暑かったせいかしら。こっちへどうぞ。うちはあまりクーラーをかけないけど、風が通って涼しいのよ」

小さな手が恐れもせずにツタの腕をつかんで、引っ張る。慣らされた猛獣のように、ツタは彼女に従った。そうしたかった。とりあえずローズはいないようだし、彼女を知る人のそばに居たかった。

通されたのは広い庭に面した応接セットのある部屋で、ツタでも寝転がれそうな長いすに座らされた。

「今、冷たい飲み物を持ってくるから」

静かな家だった。人の気配はある。どこからともなく話し声や物音もするが、それらが全て空気にとけ込んでいる。彼女の言うとおり吹きわたる風が気持ちがいい。緊張がゆるんで睡魔が押し寄せる。

滅多にないことだが、初めての場所でツタはうつらうつらした。
突然、元気な少年の声がした。

「グラン・マ！」
「おかえりなさい」

ローズが戻ってきた？
ソファから跳ね起き、獲物を嗅ぎつけた狼のように、庭へ飛び出した。

玄関前で、老婦人に子どもが三人まとわりついている。女の子と少年がふたり、ミツバチのようにさざめいている。その向こうにローズがいた。ワゴン車の後ろでトランクを閉めている。彼女に向って、ツタはまっしぐらに突進した。

今すぐ彼女を抱きしめなければ、こっちが死んでしまう。
早く。一秒でも早く。

「ローズ！」

彼女の大きな瞳が見開く。
構わず抱きしめた。

熱く激しいキスで確かめる。
確かに彼女だ。
生きている。

ツタを捕らえて離さなかった悪夢が消えた。代わりに体中を満たしていく安堵感と幸福感。だめだ、二度と離すことはできない。

「愛してる」

それはツタの降伏宣言だった。





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