荻は、人生最高の夏を過ごしていた。

去年の夏も人生最高だった。今年はそれを更新しているわけだ。
「サイコー」
いかにも日本の若者風に言うのは、そのたびにのばらが笑うから。

のばらには笑っていて欲しい。
世界で一番愛するひと。自分を救ってくれたひとだ。

彼女がいなければ自分がどうなっていたか、考えない日はない。予想も実例もスラムには山のようにあふれている。麻薬、銃、犯罪に刑務所。

自力でそこから這い上がるには、甚大なる努力とチャンスと意志が必要だ。ステップアップしたと思うと踏み外してもっと下へ、その可能性の方がはるかに高い。

荻がここにいられるのは、のばらに出逢ったから、のばらがあきらめなかったからだ。運命の女神がいるなら、荻にとっては間違いなくのばらがそうだった。


今、女神は荻の隣で、ワゴン車のハンドルを握っている。荻はまだ国際免許証を持っていないので運転を代われない。たとえ持っていても、のばらは代わってくれないかもしれない。颯とささらも乗せて走るには早いと言って。


車は、海から帰る途中だった。八月の日曜、上天気とくれば海水浴場はいっぱい人だらけ。そこに混じって、力一杯泳いで遊んだ。浮き輪にゴーグル、砂遊びにすいか割り。アイスクリームとジュースとお弁当。

これぞバカンスだ。
サイコーだ。

荻にはその余韻がまだたっぷり残っていて、口調もいつもより興奮気味になる。

「夏休みって短すぎる。クソ短すぎるよ、だろ？」
「クソみっかーい！」

二歳半になるささらは、お人形みたいに可愛くて、舌足らずのおしゃべりだ。どういうわけか荻のことを気に入って、荻のすることや話すことはなんでも真似したがる。どんな言葉でもお構いなしなので、兄の颯がそのたび渋い顔をする。ほらまた。

「クソなんて言っちゃダメだよささら。荻、ささらが真似するから汚い言葉は使うなって」
「っるせえぞ、颯」

荻の答えはからかい半分、本音半分だが、ささらは聞き逃さないで、また真似る。
「っるせーぞおーっ」

さすがにまずいかとのばらを伺ったら、眉を上げて声に出さずメッと叱った。ささらと同じ扱いだ。肩をすくめた荻は後部座席を振り返り、優しい声で言いきかせた。

「ささら、俺の真似しないで」
「クソクソクソーっ」
「ダメだって」
ダメと言われるとはしゃぐのは自分と同じか。ささらのテンションは一段と上がり、ささらの右に座った颯の目つきは一段と冷たくなった。

「ダメなら使うなよ」
「はいはいはい、すみませんですー」

荻は去年以来、日本語を熱心に習得し、その早さはのばらも舌を巻くほどだった。今では日常会話は何の問題もない。それもこれものばらやささら、颯や祖母と自由にしゃべりたい一心だった。

さすがに書くことはまだ難しいが、話すだけなら冗談やからかい、愚痴や喧嘩までこなせる。颯とだってふつうに言い合える。

「育ちが悪くて申し訳あっりませーん」
「高校生がひがんでも可愛くないって」
「颯は赤ん坊の時も可愛くなかったんだろ」

するとのばらが、楽しげに会話を割った。
「あらぁ颯は可愛い赤ちゃんだったわよぉ。人見知りしなくて誰にもニコニコして。ささらより可愛かったかも」
「……のばら、勘弁して」

バックミラー越しに颯の赤い頬が見える。ちょっと悔しい。赤ん坊の頃からのばらに可愛がられていたなんて、贅沢者め。

荻の表情を読みとったのか、のばらは話題を変えた。
「それにしても朝からよく泳いだわね。二人ともずいぶん泳ぎが上達してて、びっくりしたわ」
のばらにほめられるのは何だってうれしいが、年上だから威張りたい。颯と張り合わずにはいられない。

「俺の方が早く泳げたよな？」
颯が負けじと主張する。
「でも僕の方が長距離をいける」
「どうだか」

これは男同士のレクリェーションの一つにすぎない。
口には出さないけれど、荻は颯に一目おいていた。

去年、初めて会った時は反感しかなかった。相手は同じくらいの歳で、正真正銘のばらの家族で、のばらと暮らしているのだ。悔しかった。どうせ恵まれたお坊っちゃんだろうと思っていたが、何度かぶつかりあううちに、それだけではないと知った。

両親を相次いで亡くした颯は、年下にしては強すぎるほどの責任感を持っていた。やるべきことから逃げない。特に、妹を守るためなら、颯はなんでもするだろう。荻がのばらのためなら、なんでもするのと同じ。相通じるものをそこに感じた。

要するに荻は、颯もささらも、それから祖母も、みんな気に入っていた。
のばらは言うまでもない。
日本でずっと、こうしていたいくらいなのに。

「あぁあ、来週にはあっちへ戻らなきゃならねえのかぁ」
荻が不満げに叫ぶと、颯も憂鬱そうに漏らす。
「僕だって学校が始まる」
「やっぱ夏休みは短いよな。だろ？」
このときばかりは颯もうなずく。

「夏休みが一年あったとしても、あなたたちは満足しないでしょうね」
のばらが笑った。
「どうしてさ」
「嫌なことは長く感じるものでしょ。短く感じるのは楽しかったから。終わらせたくないからだわ」
荻はのばらを見た。出会った頃は見上げていたのに、目線が同じくらいだ。時間が早すぎるのも悪くない。早く大人になりたいなら。

口を尖らせ座席に背中を押しつけて、うなずいて見せる。
「そうかも」
「そうだね」
後ろから、颯も同意する。

「楽しい夏休みでよかった。すぐにクリスマス休暇が来るわ。ニューイヤーも一緒よ」
「わかってるさ。俺、学校が嫌いなわけじゃない」
「僕だって」
「だったら次の休暇もすぐよ」
「だよな」
荻は笑顔になると、のばらにからかわれる。

「ささらが大変ね。あなたが帰る時はいつも大泣きなんだから」
「帰ってからも大泣きしてる」
ぼそっと颯に告げられ、荻は満更でもなかった。口調だけはそっけなさを装う。
「すぐ忘れるさ」
「今回も覚えてたろ？　忘れないさ」
そうだったと、荻は思い出した。


一ヶ月前、ささらと颯と祖母とのばらが、そろって荻を空港まで迎えにきてくれた。バッグ一つで出てきた荻に、最初に飛びついたのはささらだったのだ。興奮しすぎて転びそうになりながら。

「ぎー！　っかえりー」

あわててすくい上げたものの、荻は驚いた。まだ二度しか会っていないし、前に会ってから五ヶ月近い。こんなに大歓迎してくれるとは期待していなかったのに。

ささらだけじゃなかった。颯も祖母も「おかえり」と言ってくれたし、のばらはぎゅっと抱きしめてくれた。

「おかえりー、荻」
「……ただいま」
ごくごく小声だったが、のばらも祖母もささらも、それから颯もちゃんと聞いていたらしい。

おかえりと迎えてくれる家があることが、荻には信じられなかった。でも現実だ。遠い異国なのに、トータルしても三ヶ月住んでいないのに、ここは荻が戻ってきていい場所になったのだ。

のばらのおかげで。

荻がどれほど感謝しているか、どれほど愛しているか、彼女はわかっているだろうか。わかっていないだろうなきっと。彼女は与える人だ。それも惜しみなく計ったりせず、女神みたいに気前の良さで。

そんな彼女を悩ませる奴は、クズだ。

後部座席はすっかり静かになった。ささらだけでなく颯も眠ったらしい。荻も眠りかけていると、のばらは思っているだろう。遊び疲れたのは確かだが、まだ荻は考えごとで忙しかった。

そっとのばらを伺うと、またあの顔をしている。この夏、ずっと彼女の顔から離れない、憂い顔。彼女は隠しているつもりだけれど、荻はちゃんと気づいていた。

気づかないわけがない。会えないときは頭の中で、会えていればずっと、荻はのばらを見ている。だから一ヶ月前に再会してすぐ、彼女がこれまでと違う、何かを抱えているのを察知していた。

こういう時は、自分が子どもなのがまどろっこしくてしょうがない。大人の男だったら『何か悩みがあるんだろう』といえるのに。『俺がなんとかしてやるから』って言ってみせるのに。

現実の自分は高校生のガキで、そう言ったところで『心配しないで』と流されるのがオチだ。わかっているから何もいえずに、悶々と心配し続けるしかない。畜生。

あれは、そんな気持ちが一ヶ月も続いたせいだったのか。


荻が日本に帰ってから、のばらに何度も国際電話がかかってきた。のばらもかけていたし、エアメイルも何通か届いた。アンジーというのが彼女の新しい友人らしかった。電話でごく親しげに名前を呼んだ。

ほかの名前も出てきた。シオン、それからツタ。男の名前にアンテナが立った。白状すると電話のたびに聞き耳をたてていた。のばらの憂いは絶対、男が原因だと思ったから。

そもそもこれまで、彼女に決まった男の影すらなかったのが不思議だ。あんなにいい女なのに。美人で社長で気だてもよくて何でもできて。世の中の男の目は節穴に違いない。

でも荻にはその方がよかった。自分が一人前になるまで、彼女を放っておいてほしかった。彼女にとって一番の男に、自分こそがなりたかった。なるつもりだった、本気で。

彼女にどこかの間抜けが、手を出そうとしたんだろうか。しかもうまくやるどころか、彼女を振ったとか？　許せない。


そんな風に思ったのは、のばらとアンジーの電話を聞いたせいだ。もちろん聞こえたのはのばらの声だけだったが。

『そんなに怒らないでアンジー。彼はそういう人でしょ』
『私は言うだけのことは言ったもの』
『ええ、あきらめはしないけど、時間をおいてもいいかと思って』
『いじめないでよ、ええ、会いたいけど』

思わず荻はのばらの顔を盗み見た。ほほえんでも寂しそうな顔。そんな顔をさせる誰かが彼女の心に居るのが、衝撃だった。

アンジーがいじめているわけじゃないのはわかったが、荻にとってはアンジーも、アンジーにつながる誰ともわからない男も、のばらを苦しめているようにしか思えなかった。

そしたら一昨日、のばらがまだ仕事から帰ってこないうちに、また電話がかかってきたのだ。たまたま電話を受けた荻は、むくむくと湧いた敵愾心を抑えられなかった。

『ハロー。ローズはいます？』

英語だからよけいに好都合だ。できるだけ事務的で大人っぽい低い声を出す。こういうのは得意だ。必要がなくなった今でも。

『私は今だけ留守を預かっています。ミス・ツルマキが事故に遭われて、ご家族は病院へ出払っていて』
『……なんですって！？　容態は？』
『詳細はわかりませんし、わかってもご家族以外にはお伝えできません。失礼します』
『ちょ、待っ』

ぶつっと切ってやって清々した。すぐバレるだろう。ものすごく怒られそうだけど、かまうもんか。何食わぬ顔で、戻ってきたのばらにも知らん顔していた。

それっきり電話は来ていないようだ。昨日、今日の週末、のばらは全力で自分たちと遊んでくれたので、向こうに電話する暇もなかったはずだ。あんな電話、もうかかってこなきゃいいのに−−。


いつのまにか眠っていたらしい。車が停まる感触で目を開けると、家の駐車場だった。家だ。荻にとっては人生で初めて、我が家と感じられる場所だ。

エンジンを止めてのばらが言った。
「先に入ってて。自分の荷物は持っていってよ」
「わかった」
「ぎー！」
「ちょっと待てって、ささら」

昼寝して元気いっぱいになったささらが、颯が開けたドアから落ちるように降りて、駆けだした。あわてて荻も追いかける。

「あらあら、日に焼けて」

ささらを抱き上げたのは祖母だった。正確には「のばらの」祖母で、颯とささらには曾祖母になるらしい。とてもそんな年寄りには見えない、若々しくてきれいなひと。

いつも着物姿なのが荻にとってはエキゾチックだ。白髪をきれいにまとめ、温かな笑顔はわけへだてなく、荻のことも孫として受け入れ、遠慮なく甘えさせてくれる。

「グラン・マ、ただいま！」
「おかえりなさい荻さん。颯さん、走らなくても大丈夫よ」

追いついた颯も加えて、一斉に海での出来事をあれこれ報告する。夢中になって、後ろを誰かが通り過ぎたのに気づかなかった。吠えるような声が響くまでは。

「……ローズ！」
荻の前で祖母の小さな目が丸くなる。
「まぁ」
何気なく振り向いた荻は天地がひっくり返った気がした。

サングラスをかけた大きな男が、車のトランクにのしかかるようにしてのばらを抱きしめ、激しいキスを浴びせている。おまけにのばらの細い手は、その背中をひしと抱きしめている？

嘘だ、あり得ない。


荻は、その場から動くこともできなかった。





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