ゆさゆさと揺り起こされて、ツタは目を開けた。

「起きて、ツタ。朝よ。チェックアウトしなきゃ」
「……チェック？」
「アウト。あなたも部屋に戻らないと」
「あ、ああ」

見るとローズはすでに、身支度をすませている。麻の上着にモスグリーンのインナー、ホワイトジーンズ。ラフなようできちんとしていて、ふるいつきたくなるような女っぷりだな、畜生。

頭が働かないまま、着替えと一緒にバスルームに押しやられて、抗議する。

「俺は昼過ぎの便なんだって」
「私は昼前なの。チェックアウトを伸ばすなら自分の部屋にして」

当然の言い分だ。言われたとおりにするしかないのに、急がされるのがなんだか、ひどく、気に入らなかった。さっさと別れたいってことか。そうされても仕方ないという自覚はあるが。

シャワーを浴び、ヒゲを当たって歯を磨く。鏡の中の自分は不機嫌と言うよりも、不安げだ。なんだその顔は、しゃきっとしろよと自分を叱りたくなる。別れは綺麗にさっぱりとが、おまえのモットーだろう？

夕べ雨で濡らし、脱ぎ捨てたはずのスーツは、いつのまにかクリーニングされてあった。新品の下着まである。さすがだな。ネクタイはポケットに押し込んで、シャツとズボンだけの軽装で、上着を抱えてバスルームを出た。

ローズは窓辺に立っていた。背筋を伸ばして彼方を見据える姿は凜としている。たいていの男は彼女の美しさしか見ないだろうが、今のツタを引き寄せるのは別のものだ。

甘えず寄りかからないプライドと、それに伴う孤独。
脆さに裏打ちされた強さこそが、ローズなのかもしれない。

こっちを見てローズが微笑んだ。近づく彼女を抱きしめて、口づける。それが当たり前すぎた。この体に、唇に、髪に、あまりにも馴染んでしまったと、悔いる。

キスが途切れると、ローズがツタの唇を指で拭った。
「ルージュが移っちゃったわ。赤い唇のあなたも魅惑的だけど」
「よく言う」
見つめ合って黙った。

ツタの脳裏をたくさんの言葉が行き交う。どんな風に別れようかと、幾度も考えシミュレーションしたはずなのに、今となってはどれも陳腐で、出てこない。それでも開こうとした唇を、ローズの指がまた塞いだ。指に挟んであった何かを押しつけられて。

それはバラだった。銀色のピン・ブローチには見覚えがある。小さいながらも精巧な作り。確か、初めて逢った夜に、このトゲで刺されたはずだ。どうして俺に？　不思議そうなツタの目線にローズは応えた。

「昔、愛した人にもらったの」

手のひらのバラが突然、燃えだしたかと思った。もちろん気のせいだ。黙っておこうと思うのに、都合の悪い時だけ口は動く。

「オギか」
「オギは生きているわよ。彼は死んだわ。リリィと同じね」

失ったのは自分だけじゃない、そう突きつけられてツタは黙る。
ローズが窓の向こうをみはるかした。

「私は彼を愛していたわ。私のものにはならなかったけれど、無意味だなんて思ったことはない。彼に出逢って私の人生がどれだけ豊かになったことか」
ツタへと視線が戻る。

「あなたとの出逢いもそうだと信じてるわ。だからあきらめない」
「ローズ。俺たちは今日で別れるんだぞ」
「そうよ。残念だけど、私はどうしても戻らなきゃならない。オギを迎えるために」

ツタの心が騒いだ。狙ってやっているなら大したものだが、ローズは淡々とした表情でブローチに触れる。

「だからこれを置いて行くわ。次に逢うまで持っていてちょうだい」
「無駄だ。俺はすぐに君を忘れる」
「捨てても構わない」
「何を言ってる。大事なものなのに」
「でも今は、あなたの方が大事よ」

彼女はどうしてこんなことができるのだろう。ありとあらゆる危険を、謀略を、経験した男を黙らせるみたいなことが。

「愛しているわ、ツタ」

こんな女の前では、男はただの間抜けだ。
みつめるだけの間抜けの頬を両手で包んで、ローズがささやく。

「世界のどこにいても、何をしていても、あなたを愛しているから」

彼女からのキスは、敬虔な祈りのようだった。
柔らかく優しく、それでいて熱く真摯な。

「忘れないで」

するりとツタから離れ、スーツケースとハンドバッグを手に、ローズは言った。
「行きましょう、ツタ」
ほがらかな笑みには一片の陰りもなかった。



アンジーやシオンと共に、タクシーで去るローズを見送った。

それから彼らと朝食をとって、ツタは自室に戻った。チェックアウトを少し延ばしたので、急ぐこともない。ローマの街を窓から眺めるツタの手には、ブローチがあった。

拒んでも拒んでも懲りない。
愛してくれとも言わず、泣くこともすがることもしない。
ただ告げるだけ。愛していると。


ローズはとっくに空港に着いただろう。チェックインをすませ、ハンドバッグ一つで、セキュリティゲートをくぐっていく彼女が浮かぶ。見送りもいないのに振り返って、微笑む。

『　愛しているわ　』


ああくそ、懲りないのは俺の方か。また撃ち抜かれてしまったらしい。
塞がらない胸の穴をどうしたらいい。

にぎりしめると、ブローチのトゲが刺さった。胸の痛みと同じに思えて、ツタは空を見上げる。雲の彼方を飛行機の影がかすめた。

彼女が遠ざかってく。
こんなにもツタを心許こころもと　なくしたままで。

とんでもない女だ。
とんでもなく、いい女。
そんな女を行かせちまう奴は。

「……ロクデナシノスットコドッコイ、か」


バカンスという名の楽園が終わる。
ツタの心と手のひらには、バラのトゲが食い込み、抜けなかった。





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