こんな時間に無謀だわ、危いわよ。
常識と理性のささやきを、のばらは無視した。

暗い夜空に、吹きすさぶ風と雨。真夏の嵐がのばらには心地よかった。歩いて歩いて、少し気分がすっきりした。帰ったらぐっすり眠れそうな気がする。

けれど、ほんとうの嵐はホテルで待っていた。


びしょぬれでエレベーターを降りたのばらを、彼女の部屋の前からツタがにらみつけた。その目が怒りに燃えている。バトルを覚悟したのばらは、鍵をぐっと握りこみ、ドアまで歩く。

「どこに行ってた」
「どこにも」
「どこにも？」
「ホテルまで歩いただけよ」

鍵を差し込み、ドアを開ける。もちろんツタも付いてくる。カーペットを蹴散らす勢いだ。怒鳴っている。

「歩いた？　こんな時間に雨の中を？　傘も持たずに？」

部屋の中では逃げ場がない。窓際で立ち止まったのばらの、目の前にツタが立った。さっきは気づかなかった。彼の髪も肩も濡れている。

「タクシーが来たのにレストランにいない。ホテルのフロントに聞いても戻ってないと言う。昼間、あんなことがあったばかりだぞ、どれだけ心配したと思ってるんだ！」

確かに軽はずみだった。タイミングも時間も雨も。だが認めたくなかった。自分らしくないとは思うが、言われれば言われるほど心がかたくなになる。

「心配なんてしなければいいじゃない！」
「なんだと？」
「昼間みたいなことは特別よ。私はひとりでやってきたの。雨に濡れようと夜歩きしようと、自分の面倒は自分で見られるわ。放っておいて！」
「ローズ」
「あなたはあなたの大事な人の、リリィのことだけ心配していればいいのよ！」

言葉は勝手に飛び出した。ずっとずっと、心の中に引っかかっていた名前だった。ツタの顔から色が消える。彼の目に宿ったのは焦燥や怒りでなく哀しみだった。

「その名前を、どうして知ってる」
「……寝言で……」
「そうか」

彼の目がのばらから、窓へとさまよう。風に叩きつけられて幾つもの滴が、ガラスの上を伝い落ちている。涙のように。

「確かにリリィは、俺が愛したたったひとりだ」

のばらも目をそらした。胸が痛い。わかっていたつもりなのに。
「とっくに死んだ」
「……え？」
「もういない。君のオギとは違う」

今、彼の目にあるのは怒りだった。オギと言われて驚くのばらを、乱暴に引き寄せ、ツタは口づける。荒く激しく痛みさえ覚えるキスで、のばらにも欲情が燃え上がった。

窓の外に稲妻が閃いた。鉤裂きのように空を分かつ。
ひとつ、もうひとつ、天の怒りが落ちる。

二人の交わりも嵐のようだった。互いに責め、耐え、挑み、応える。問いをぶつけあい、答えを捜し求め、しかしどちらも何も掴み取れぬままで、夜も嵐も尽きていった。


雲が吹き飛ばされ、白々と夜明けの光が忍び寄る。ベッドの上で二人は物のように並んで横たわっていた。ツタは仰向けに、のばらはうつ伏せに、どちらも素裸だ。

荒かった息が収まるにつれ、沈黙がとてつもなく重い。逃げるように腕に顔を伏せ、のばらはとろとろと眠りかけていた。

「姉だ」
「……え？」
空耳かと横を見ると、天井をにらんでツタが言った。

「リリィは姉の名前だ」
「……うそ」
疑ったわけではないが、他に言葉が出てこない。

「スラムで俺を育ててくれたのはリリィだった。生意気な俺は十五の時にギャングにからまれて、俺をかばってリリィは死んだ。俺が殺したようなものさ」
「ツタ」
「俺の愛と永遠は、リリィが全部持ってったんだ」

何が言えるだろう。
何も言えない。慰めも理屈も。

のばらに向けたツタの目はもう凪いでいた。柔らかくて優しくて、遠い。くしゃくしゃに丸まっていた毛布を広げると、のばらを引き寄せて一緒にくるまる。額に口づけてささやく。

「君はとびきり上等な女だ。もっといい奴がふさわしい。たぶん、オギみたいな」

それっきりツタは眠ってしまった。
のばらから眠りを奪って。

オギの名前がどうして出て来たにしろ、のばらに何も聞かず、何も言わせない。ツタは決めてしまっている。

諦めた方がいい。追いかけても無駄よ。
いい年の女が、これ以上、みっともないことしないの。
彼は変わらない、わかったでしょう。


向こうの窓から空が見えた。
昨夜の嵐などなかったように昇ってくる太陽。
よけいな物を吹き飛ばして、最後に見いだされるもの。

この気持ちから、逃げることができる？
ほんとうに？


ツタの隣で、のばらは自分と闘い続けていた。





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