最高級のリストランテのフロアは、夜の海のようだった。

置いてあるキャンドルが、各テーブルを点々と小島のように浮かび上がらせる。のばらはツタと、そのひとつに向かい合って座っていた。赤を基調に織られた絨毯に、深緑とパールを重ねたテーブルクロスが映える。

しっとりした雰囲気と確かな味で二つ星を獲得しており、予約がとれないことでも有名な店だ。今夜来ることができたのは昼間の騒ぎの余録、とでも言うのか。

食前酒が注がれたグラスを手に、のばらは思案した。

「何に乾杯すればいいのかしら」
「君の強運に決まってる」
「怪我をしなかったのは運じゃなくて、あなたのおかげでしょう？」
「結果として、ビジネスにまで繋がったじゃないか。君が強運の持ち主なのさ」
そう言われたら苦笑するしかない。

のばらにしてもすべて予定外、予想外の展開だった。
まさか、トニーがあんなことをするなんて。

ピストルにはちゃんと玉が入っていたという。一歩間違えば誰か怪我をしていたかもしれない。死んでいたかも。自分がいかに無謀だったか、後になるほど身に沁みてくる。

決して腕に覚えがあるとか、武術が得意とかではないつもりだったが、突然飛び込んできたトニーが、話していたマネージャーに銃を向けたので、考える前にかばってしまった。条件反射のようなものだ。

そう言ったらツタに一段と苦い顔をされた。あの時、抱きしめられてどれほど安心したことか。怒鳴られて驚いたが、彼の本気が伝わって嬉しかった。

嬉しかった。
大事に思われているとわかって。

その後、連れて行かれた警察で事情聴取を終えると、女性が二人待っていた。ルチアと、五十代前後のしっかりした骨格と華やかな容貌の女性だった。いつもは鋭そうな目に、声に、感謝があふれている。

「セニョリーラ・ツルマキ。セニョール・クライン。お二人にはなんとお礼を言えばいいか。娘と店、二つながら救って頂きました」
「娘？　店？」
わけがわからず、のばらが口ごもると、隣のルチアが言葉を添えた。

「母のフィオレです。＜フィロ・デ・ラグノ＞のオーナーでもあるの。私からも御礼を。命を助けてもらったわ」
「末娘なんですよ。この子に何かあったら私はどうしたでしょう」
「あの、でしたらトニーは」
のばらの頭の中で情報が入り乱れる。

「娘婿、でした。あのろくでなし。許さないわ」
きっと眉がつりあがって吐き捨てる口調になる。手強そうな姑だ。ちょっとだけトニーが気の毒になる。

「今度こそ離婚させます。いいわねルチア」
「シ、マードレ」
答えに怒りと恥ずかしさが混じっていたが、自分たちが立ち入る問題ではない。

「セニョールの対処は実に的確だったとか。発砲がなかったおかげで、店内の被害もほとんどありませんでした。オーナーとしても心から感謝申し上げなくては」

フィオレが求めた握手に応えながら、ツタの左手はのばらの腰を抱いたままだ。あれからツタはずっと、のばらのどこかに触れている。

「俺はローズを守っただけだ。お嬢さんをかばったのは彼女です」
そっけない応えだが、フィオレはむしろ感心したようにうなずいて、のばらを見た。
「ルチアに聞きました。セニョーラはうちと商談をお望みとか」
急に鼓動が速まった。

「お話を伺わせて頂くわ。もちろんビジネスですから、伺ってみないと結果はわかりませんけれど」
「ほんとうに？　お願いします。興味を持っていただけなければ」
「あきらめる？」
「まさか。練り直してまた来ます」

ルチアが目を丸くし、フィオレが笑いだした。
のばらを引き寄せ抱きしめる。
「ルチアに見習わせたいわ。恩人でなくお友達になれそうね。是非聞かせてもらわなくちゃ」

フィオレはのばら本人だけでなく、その提案も気に入ってくれた。長期戦を覚悟していたのに、商談はトントン拍子で進みそうだ。詳細を詰め、改めて契約を結ぶことになるだろう。

もうひとつ、余録があった。友人の結婚祝いにベールを贈りたいと相談すると、二つ返事で引き受けてくれたのだ。
「あなたの頼みなら。半年頂ければ仕上げて見せましょう」

アンジーの喜ぶ顔が目に浮かぶ。
ドレスが決まったら、デザインを送ってもらおう。


「招待してくれただけある。いい店だな」
コースはすでにデザートだった。どれも文句なしの美味で、サービスも隙がない。フィオレとルチアがプレゼントしてくれたディナーは、ほんとうに素晴らしかった。

「いつも予約が満杯で、なかなか取れないそうよ。贅沢ね」
「酒も食事も最高級だ。タダ酒だからよけいに旨い」
「ツタったら」
笑ったものの、座り直したのばらは、改めてツタに礼を言った。

「ほんとにありがとう。助けてもらった上に、願っていた商談までうまくいくなんて。ツタのおかげよ」
「礼はいいから、ああいう無鉄砲は二度とするなよ」
真顔で叱られた。仕方ないとは思うし感謝しているが、少しだけムッとしたのも確かだ。

「やろうと思ったわけじゃないもの。銃を向けられたから」
「銃を向けられたら、普通は全部放り出して逃げるんだ。死んだら元も子もない」
「考える前に動いちゃったのよ。だって、目の前で誰かが死ぬのは嫌だわ。そうでしょ？」

ムキになって言い張ると、怒るかと思いきや、ツタはじっとのばらを見つめた。深く見通すように、のばらの後ろに誰かが見えるように。

「ああ。目の前で死なれるのはごめんだ」

下手をすればそうなっていた、そう思い当たって、のばらは言い訳をやめた。宥めるように微笑む。声が知らずに甘えている。

「ごめんなさい、もうしないわ」
「ほんとだな？」
「……たぶん」
「たぶんじゃまずいって」
「今まで平気だったんだし。あなたがいれば」
「明日から俺はいないんだぞ」

ぱんっ。

彼の言葉が銃弾になって、胸を打ち抜かれた気がした。
心にあいた大きな穴。
彼の顔をまじまじとみつめる。舞い上がって勘違いしていたのだと、のばらは悟った。

昼間、彼の腕に飛び込んだ時の、みつけたという想い。捜し求めた人だという確信が一方的だったなんて、彼に通じていなかったなんて信じられない。

彼は変わらないの？
いいえ、諦めるのは早いわ。まだ闘ってもいない。負けるものですか。

「あなたが怒っているのは、私のことが心配だから？」
「決まっている」
「私だって自分から危ない目に遭いたいわけじゃないわ。でも持って生まれた性格はそうそう変わらないし」
「だろうな」
「だから、提案があるの」
「……どんな」

彼の警戒レベルが上がった。のばらが敵であるかのような目つきが腹立たしい。冗談じゃないわ、覚悟しなさいよ。ふさわしい状況とは言い難いけれど、そんなの構っていられない。

「ボディガードを引き受けてくれないかしら」
コーヒー越しに視線が飛んできた。のばらの正気をはかるかのようだ。
「仕事のオファーか？　どのくらいの期間」
「生きている限り」

カシャンとカップがソーサーに置かれた。彼の目はさらに大きく見開かれている。その色は暗い。でも失うものはないし、逃げるよりはマシよ。
「私だけのボディガードになって」
「なぜだ」

このぼんくら。彼を撃ち抜くピストルはないの？
言うしかない。

「愛しているから」

ひたと彼を見つめる。胸に燃えるこの気持ちを、二度と感じることはないと思っていた。手放したくない。

「あなたに、そばにいて欲しいの」
「何のために」
まさか、そんな問いを返されるとは思わなかった。ツタは真顔だ。

「死んでしまえばどんな愛も水の泡だろう」
「それは」
「愛は死に勝てない。死に愛を奪われたら、残るのは哀しみだけだ」
「……ツタ」
「ならどんな意味がある？　愛に意味なんかない」

のばらの心にアラシの記憶が押し寄せた。
彼の顔、彼の声、彼の笑み。
愛して苦しんで失ったけれど、彼の幸せが、のばらを支えた。
今は、彼らの忘れ形見が生きる支えだ。

水の泡ですって？

「臆病者」
「……なんて言った？」
「あなたは臆病者よ。愛することより失うことが怖いだけの。その上、卑怯者だわ」
「……なんだと？」
ツタの表情が怒りに変わろうとしているが、のばらは退かない。

「昼間、私を心配しているようなフリをしたくせに」
「フリじゃない」
「明日には別れて忘れてしまう心配なら、フリよ」
「違う」

のばらも怒っていた。怒りの炎が胸に空いた穴から、野火のように全身を焼いて、彼に向かおうとしている。けれど二人の間には、目に見えない大河のように、氷河のように、遠い遠い距離が広がっている。

愛しているのに、私の想いは届かないの？
またしても？
砂を噛むような悲しみが湧いてくる。

だめだ。

「帰りましょう」

のばらが立ち上がるとツタも無言でならった。ここで口論しても仕方ないと思ったようだ。だったらどこですればいいというのだろう。

フロントにタクシーを頼んだが、十分ほどかかりそうだと申し訳なさそうに告げられた。これ幸いと言わんばかりにツタが喫煙室へ向かった。
「一服してくる」
「どうぞ」

タバコを吸うより、二人の間の滞った空気を嫌ったのだろう。
ツタの背中を見送ったら、急に耐えられなくなった。

何が？　何に？
問いも答えも、もうたくさんだ。

昼間から怪しい雲行きだったが、雨が降り始めていた。風も強い。ううん、かまうものですか。彼と狭いタクシーの中に詰め込まれるより歩いて帰ろう。ホテルまでせいぜい十分だ。

のばらは外へと飛び出した。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　next　＞＞