ローマを発つ前日になった。
明日の夜にはそれぞれ、違う空の下だ。

四人でにぎやかにすごそうと思っていたツタだが、昨夜、夕食時にアンジーに釘をさされた。
「今日、ローズを借りちゃったから明日は二人で過ごしたらいいわ。明後日の朝、会いましょうよ」

すでに相談済みらしくシオンも同意する。ツタの顔色を読んだようにアンジーが睨んだ。
「文句ある？」
「そうじゃないが、ローズの意見も聞いてやれよ」

逃げるように言っても、ローズは肩をすくめるだけだ。
「ツタが嫌じゃなければ」
「なんだよ俺が悪者か」

「嫌だなんて罰当たりなこと言ってみなさい、ブン殴るから」
「それはやめておいたら」
「なによシオン」
「ツタのは口ばっかりだからさ」
「あぁなるほど」
「……勝手にしろ」
急に立場が弱くなったみたいで、納得できない。

釈然としなくて仏頂面になっていたようだ。
食事を終えて部屋に戻る途中、ローズが気遣うように言った。

「私、明日は行きたいところがあるの。別行動にしましょうか？」

一人で過ごしたいわけじゃないんだって。自分を情けなく思いながらローズの顔を伺った。怒っているのかどうか、大人の彼女は顔色を読ませてくれない。参ったな。

「俺が一緒だとまずいところか？」
「まさか。でも退屈じゃないかしら。レースの専門店よ」
「仕事か？　君はブライダル業をやってるってアンジーが」
ローズがうなずく。

「仕事ってわけでもないの。老舗の一流どころはツテがないと商談もしてくれないから」
「そりゃまたずいぶんだな」
「よくあることよ。でも素晴らしいレースなの。今回は無理でも来年、再来年には口説き落とすわ、絶対」

その横顔には決意と強かさが同居していた。女とは別の、ビジネスウーマンの顔だ。ほんとに油断ならない、幾つもの顔を持っていて、そのどれもが魅力的ときている。

「邪魔でなければつきあうさ」
「いいの？」
「一緒にいたくないとは言ってない」
ローズが、微かに口元をほころばせた。
「良かった」
小さなつぶやきに男心をくすぐられる。今夜ぐらいはと思っていたのにまた彼女の部屋に泊まってしまう。

コントロールできない自分に当惑と不快を覚える。そのわけをツタは知りたくなかった。


銀のプレートには「フィロ・デ・ラグノ」とあった。
「蜘蛛の糸」か、レースの店にぴったりの名前だな。

店内も老舗らしく重厚だったが、さすが有名ブランドで客足は絶えなかった。レースに注目したことのないツタでも、飾られている品の美しさと質の良さはわかった。細かすぎる模様で、どうやって編まれているのか想像もつかない。職人による工芸品の類だ。その分、高価になるのは仕方のないことだろう。

それにしても結婚式は、こんな高価なものも商売にするのか。身近に式を控えているアンジーとシオンを思い浮かべる。どっちも金には困っていないが、どれほど散財をするのやら。よけいなお世話か。

ツタをよそに、ローズは熱心に店内を巡って、それぞれの商品を入念にチェックしていた。スタッフにも質問を浴びせ、しばらく話し込んでいたが、やがてヒールを鳴らして戻ってきた。

鋭いビジネスウーマンの目つきにゾクゾクする。
どうかしているな。

「ごめんなさい、放りっぱなしで退屈でしょ」
「そうでもないさ。大した店だ」
「でしょう？　どの商品も素晴らしいわ。でも高価だから、一般の人はなかなか手が届かないわ」
「だろうな。日本じゃこんな高価なものも売れるのか」
素朴な疑問にローズはあっさり首を振った。

「でもね、小物ならいけると思うの。ウェディングドレスに合わせてレースの小物を提案したいと思ってるのよ」
「さっき話していたのは店長とか？」
「店長は不在らしいの。マネージャーってところね。折り入って頼みたいこともあったんだけど、どうかしら」

口振りとは違って目を輝かせている。いつまででも見ていたい、そう思うと逆に逃げ出したくなった。正気を失いかけている気がする。

「ちょっと外でタバコを吸ってくる」
「もう少しいいかしら？」
「急がなくていい」
そう言ったのは彼女への気遣いというより、自分のためだった。


店のそばの路地でたばこをふかしながら、壁にもたれてツタは空を見上げた。真夏の陽射しは相変わらずだが、どうやら雲が出てきた。夕立くらいはあってもいい。

ごまかしてるなと思った。明日のことを、明日からのことを考えまいとしている。考えても仕方がない。アバンチュールは短いものと決まっているさ。すぐに忘れる。

忘れるって、ローズを？

「……ア、チチッ」

ぼうっとしていたようだ。タバコが口元まで灰になって、落ちた。しかたなく靴で踏み消していると、横を誰かが通り過ぎた。険しい表情をした男。横顔に見覚えがあった。この不快感……誰だ？

「フィロ・デ・ラグノ」に入っていく。
直後に悲鳴が上がった。


飛び込んだ店内でツタが見たのは、銃口に身をさらしているローズだった。マネージャーの女性を背にかばう彼女に、さっきの男がピストルを向けている。

何度も死線をくぐりぬけてきたツタが、かつてない恐怖を感じた。心臓を万力でねじられるようだ。男の指が震えるだけで、ローズは死ぬ。

死？
自分の目の前で、また？

過去が重なる。
響く銃声。倒れるリリィ。
違う、リリィじゃない。ローズをリリィみたいにするものか。

ツタの焦りや怖れも知らず、ローズは男に叫ぶ。
「やめてトニー！　何するの！」

トニー？
思い出した。初めて会った夜、ローズにのされた、あいつだ。
情けない男が危ない目で言い返す。

「どいてくれローズ！　君には関係ない。僕とルチアの、妻との問題だ」
「妻？」

ローズが振り返り、ツタも驚いた。ローズの後ろの女性がルチアで、トニーの妻らしい。恐怖に震えながらルチアも叫ぶ。

「トニー、何のつもり？」
「君が僕を捨てようとするからだ」
「浮気したのはあなたでしょう、しかも何度も」
「謝ったじゃないか」
「おまけにギャンブルまで！　もううんざりなのよ！」

うんざりなのはこっちだ。自業自得の離婚話の果て、こともあろうにローズの命を危険にさらすとは、このバカ野郎。慣れない銃を向けるのに精一杯で、ツタに全く気づいていない。

バカは死ななきゃ直らないってのは、ほんとだな。

ツタは背後からトニーに忍び寄った。青ざめて緊張していてもローズは冷静だった。トニーの後ろのツタと目線を合わせ、うなずく。

指で合図したあと、トニーの肩をたたいた。
トニーがぎょっと振り向くと同時に、ローズがルチアごと、床に伏せた。

「うわあっ」

あとはツタの独壇場だった。手首をつかみ、ひねってピストルを取りあげる。足を払って仰向けに倒れたところを靴で踏みつけ、トニーの眉間にピストルを向けた。

簡単すぎることに腹が立つ。
怯える顔に銃弾をぶち込んでやれたら、どれだけスッとするだろう。

「死にたいか」
「待て、待ってくれ。ルチア、助けてくれ」

情けない声をあげて泣き出すトニー。
起きあがったルチアがよろよろと近づき、怒鳴った。
「死になさいよ、このバカ！」

同感だ。

トニーの両手を背中で縛りあげる間に、パトカーのサイレンが聞こえて、警官が飛び込んできた。誰か通報したようだ。面倒だな。

「ツタ」

いつのまにか、ローズがそばにいた。
乱れた赤い髪。青い顔。
気丈に微笑んでいるのが、気に入らない。

「怪我は？」
「ないわ。あなたのおかげよ。ありがとう」
「……ありがとう、だ？」

ピストルを向けられたローズを見た時から、押し殺していた感情が、そこで爆発した。ショーウィンドーを震わせる勢いで怒鳴った。

「このバカ！　銃の前に立ちふさがったりして！　死ぬ気か！」

客も警官も目を丸くして驚いているが、ツタの怒りは収まらない。

「あんな至近距離じゃ防弾チョッキを着てたって駄目だ。頭を狙われたら一巻の終わりなんだぞ！　わかってるのか！？」
「だって」
「あいつが狙ってたのは女房のはずだ。なんで君がかばう必要がある？　命をかける義理でもあったのか！」
「ないわよ、ないけど、つい」
「つい？　ついで死ぬのか？　君が死んで悲しむ人のことを考えなかったのか？　妹や親や甥や姪やっ」

息が切れた。
こんなに怒鳴ったのは久しぶりだ。そのせいかぽろっと本音が出た。

「……どれだけ心配したと思ってるんだ」

ローズが目を見張った。顔が紅潮して目が潤んだと思うと、胸に飛び込んでくる。両腕に抱きしめて初めて、自分がどれだけ怯えていたかを悟った。

「ごめ、んなさい」
「勘弁しろよ。なんでこんな目に」
「ツタ」

きつく抱いても安心できない。警官に事情聴取を請われたが、ツタはローズから手を離せなかった。同時に、そんな自分をなじってもいた。

愛じゃない。
愛したりするな。また失うだけだ。
懲りたじゃないか。
二度と心が粉々にならないように、彼女から離れろ。


とっくに心は撃ち抜かれているのに、ツタは必死で抗い続けていた。





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