ツタの記憶の中で、リリィほど綺麗な女はいなかった。

小首を傾げるとさらりと流れる、ツタと同じ色の長い髪。
大きな黒い目が見つめてくる。

『ツ−タ』

疲れていても、優しい声。
ほんの少し引き延ばす呼び方は、姉独特のものだ。


七つ違いの姉弟だった。父親は知らず母親にも捨てられたあと、十五のリリィが身を売りながらツタを育ててくれた。ツタがようやく十五になった頃、近所のいざこざに巻き込まれて、あっけなく死んでしまった姉。

スラムでは珍しくもない侘びしい話だった。誰にも、アンジーやシオンにすら話していない。思い出すことも少なくなったのに、たまに夢を見る。覚めるといつも心が重い。


なのに、今夜の彼女は明るく楽しそうだ。何かしゃべっている。聞き取れないが耳に心地いい。笑っている。リリィがあんな風に笑ったことがあっただろうか。もっと聞きたい。もっと。

「……うよ。あなたより数時間未来にいる。不思議ね？」

リリィじゃない。
ツタはふっと眠りから覚めた。

目を閉じたままで時を計る。夜明けには間があるようだ。抱いていたはずの体がなかった。ベッドのすぐ脇からくぐもったローズの声がする。電話か。甘い、優しい声だ。

「楽しそうで良かった。ええ、もう少ししたら会えるわ。ソウとササラも待っているから」

ソウ。
ササラ。

人なのか動物なのか、しゃべっている相手は誰だろう。頭の中は疑問符だらけだ。ローズが小さく笑った。かすれた声は数時間前に聞いたものと似ていて、下腹部が強ばる。

「じゃあね。愛してるわ、オギ」


ツタは目を見開いた。薄闇を凝視する間に、受話器を置く音がした。立ち上がって窓へと向かう背中にそっと目を遣る。

カーテンの隙間から射し込む明けの光で、ローブの下の裸体が透かされる。美しい。欲望を刺激する姿だ。男なら誰だって欲しがるだろう。誰だって。

『愛してるわ』

ベッドから滑り降りると獣のように音もたてず、ローズの背後に忍び寄った。遠くを見ている目が苛立たしかった。どこを見ているんだ。誰を。

後ろから抱きしめると、驚いた顔で彼女が振り向いた。
「ツタ？　起きてたの、んんっ」

かみつくように唇を塞いだ。言葉は欲しくなかった。今、欲しいものは知っている。

結んだベルトをほどき、ローブの前をはだける。素肌に両手を這い回らせ、押し上げ、求めた。何に駆り立てられているのかは考えなかった。

窓の向こう、空を焼いて上る朝陽よりもっと激しく、ツタの心を何かが焼いていた。


電話が鳴った気がした。

のろのろ起き上がって時計を見ると、二度寝のせいでずいぶん遅かった。シャワーの音がする。ローズも起きたばかりだろう。強引に抱いたのを思い出して気まずかった。ガシガシと髪をかき回して思案する。

だからといって謝るのもおかしい。最初はともかく、彼女も応えていたのは間違いないし。とりあえずコーヒーを飲もうと起き上がった。

ローズの部屋はダブルベッドで、自分たちよりもグレードが高いのが見て取れたが、ホテルの部屋だから基本は同じだ。インスタントドリップのコーヒーを見つけて、カップも二つ用意する。

無意識の賄賂だな。
湯沸かし器のコンセントを入れながら苦笑した。


カップにお湯を注いでいたら、バスルームからローズが現れた。思わず手元が狂いそうになる。明け方の名残などどこにもない。ローブに懲りたのか着替えている。パリッとして焼きたてのクロワッサンみたいだ。

白地にピンクのバラ模様のブラウスと、赤いカプリパンツ。両サイドから編み上げた髪を背中でひとつに結んで、パールのイヤリングが耳元を飾っている。

ツタを見ると足を止め、眉を上げた。危機回避能力には自信がある。ツタは入れたばかりのコーヒーを両手に、ことさらゆっくり彼女へ近づいた。心でホールドアップしているのは内緒だ。

「お詫びのしるしに」
「詫びるようなことをしたって認めるのね？」
「四分の一くらいは」
ローズはカップを受け取ってくれた。よし。

「二分の一は君も楽しませた自信がある」
「まだ四分の一、残っているけど？」

頭のいい女は好きだが、今日に限っては困る。
「そこはまだ分析していないんだ。そもそもの発端は君かもしれない」
彼女に睨まれて、口をつぐむ。

「明け方、音もなく襲いかかられるように、私がそそのかしたとでも？　あなた、シャワーの時も私のせいにしたじゃないの」
にらまれたが、そこは譲れない。

「君は確かに誘ってたさ、腰を振って」
「だからって、全部あなたに譲る気はないわよ」
「わかったわかった。発端かもと言ったが、そうだとは言ってない。まだ考えがまとまってないんだ」
「考えるほど難しいこと？」
「俺にとってはね。わかったら伝えるよ。それでどうだい」

カップに口をつけ、ようやくローズはうなずいてくれた。
「美味しいコーヒーを入れてくれたから。でも必ず教えて。約束よ」
「ああ」
にっこり笑ったローズは、ツタのそばに歩み寄った。

「おはよう、ワイルドガイ」
「おはよう、クロワッサンレディ」
「何、それ」
「何でも」
キスは同じコーヒーの香りがした。ソファに並んで腰を下ろす。

「さっき、シオンから電話があったのよ」
「へえ？」
「あなたを閉め出したのが気になったらしいわ。ここにいるって伝えたけど。まずかった？」
「まさか。二人はどんな感じだった？」
ローズの笑みは満足した猫のようだ。

「とっても幸せそう。でね、ちゃんとしたダブルデートしましょうって」
「なんだそれ」
ツタは笑った。昨日の尾行もダブルデートのうちか？

「いいじゃないの。楽しそうだわ」
「あいつらが良いなら、俺はかまわない」
「良かった。着替えに部屋へ戻るでしょ？」
「ああ」

行きかけて、とって返した。ソファで不思議そうに見上げるローズに、さっきよりも深く口づける。彼女が小さくあえぐと、やっと満足する。

「……なに？」
「いや。夜中の君も良かったが、夜明けの君がまだちらついてる」
「バカ」
クッションで叩かれた。
「さっさと行きなさい」
「投げるなよ」
笑いながら部屋を出たところで、ツタはふと振り向いた。

−−オギって誰だ？

浮かんだ問いは声にならず、目の前でドアが閉まる。
舌打ちして歩き出した。

言わなかった問いに潜む自分の心、四分の一を知りたくない。それがそもそもの発端だとしても。

『愛してるわ』

ローズの声が繰り返し響いていた。





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