地下鉄から地上に出る。あたりを見回したが、アンジーの姿はどこにもない。やれやれとのばらは思った。仕方ない。ここまで追いかけたのも出来すぎだ。


「尾行されている」とシオンに囁かれたのは、サン・ピエトロ広場だった。耳を疑い振り返ろうとして、止められる。

「アンジーだよ。ってことはツタも一緒だね」
「ほんと？　どうしてわかるの？」
「視線で」

そう言われても半信半疑だったが、シオンは正しかった。かつて軍にいたと、ツタが言ったのはほんとうだろう。だったらのばらが追いかけたところで、アンジーに追いつくわけがないのだ。


見失った。さてどうしようとのばらは迷った。行き先がわかるほど彼女のことを知らないし、ローマは広い。ホテルに戻った可能性もある。だったらバカンス続行だ、行きたいところに行こうとのばらは決めた。

シオンにあえて言わなかったが、今日の観光テーマは名作『ローマの休日』だ。気分だけでもヘップバーンに浸りたい。

軍人には負けるだろうが、方向感覚と記憶力には自信があった。ローマ市内の地図は頭に入っている。やっぱりあそこは行かなきゃと、のばらは元気よく歩きだした。


犬も歩けば棒に当たる、とは限らないのに、のばらはアンジーを見つけてしまった。

やってきたのはスペイン広場。観光客が行き交う広い階段の、境の部分に乗ってぽつねんと膝を抱えていた。雌ライオンのオーラを消して小さな迷い犬のようだ。

スペイン階段とくればジェラートと相場は決まっているが、走り回った後だから飲み物の方がいい。屋台で買ったジュースを両手に、ゆっくり階段を上っていく。相手が男性でないのはちょっと残念だ。

立て膝に頬杖をついて、焦点の定まらない目をしたアンジーに、カップを差し出す。
「飲まない？」

隠れていたわけでもないのに、近づいてくるのばらに気づいていなかったらしい。音が聞こえるくらいの勢いで目を瞬く。長いまつげは金色だ。

「なんでここに」
「たまたま。ほら持って。そっちにずれて」
「どうして」
「座りたいから。追いかけてきたのよ？　見失ったけどね」
「見失ったのにどうして」
「だからたまたま。うん、美味しい」

ストローからのどへと落ちてくるオレンジの味と、目の前に開ける景色を堪能する。
「気持ちのいい眺めね。あ、そっちはグレープフルーツだから」
しゃべるのも面倒になったのか、アンジーはストローでズッと吸った。
「……美味しい」

まだるっこしそうにストローをよけ、一気に飲み干した。よほど喉が乾いていたようだ。そういえば。
「ビールも飲んでなかったものね、さっき」
ギクッとした顔でこっちを見るので、探りを入れる。

「シオンって博学ね。ローマの歴史にすごく詳しくて、何を尋ねても教えてくれるの」
「頭いいから」
「優しいし」
「誰にだって優しいのよ」
「でも軟弱じゃないし」
たまりかねた表情で、アンジーが聞く。

「昨日はツタといい雰囲気だったくせに。いったいどっちが狙いなの」
「あなたは？」
問い返されるとは思わなかったらしい。言葉に詰まるアンジーをよそに、ジュースを吸ってから続ける。

「ツタを追いかけてるって言うから、シオンを誘ったのに。実はシオンが本命だった？」
「そんな！」
「今日の様子じゃそうとしか思えないわよ」
アンジーの肩が落ちた。飲み干したカップが倒れて、残っていた氷まで足下に転がって溶け出す。

二人がいるのは屋根もない広い階段の真ん中だ。左右を観光客が上り下りしていく。二人のように座り込む人もいる。ゆっくり流れる時間が見えるようだ。
「……十九の時に二人に会ったの」
うつむいたままで、小さな声が言った。

「どっちもいい男で、頭が良くて腕も立った。ツタは気性が荒くてシオンは穏やかで、でも冷静なのはツタで向こう見ずはシオンの方。相棒として補い合う最高のペアだった」

銀と黒、柔と剛、炎と氷。アンジーは二人をそう表現した。シオンが炎でツタが氷というのは、意外なようで納得できる描写だった。ツタの中には溶けない氷がある。最後で人を突き放すような。

「あたしは最初からツタに夢中だった。一目惚れよ。会ったその日に告白して、振られた。仲間とはつきあわないって。行く先々の夜の町ではいつも女と一緒のくせに」
「なのに諦めなかったの？」

素朴な疑問だった。思うようにならないのが気持ちといえ、振られた上に他の女とつきあうのを見たら、無理にでもやめようとしないだろうか。

「女には冷たいけど、仲間や自分より弱いものには優しいの。仲間としてなら他の人より近くにいられた。そこに望みを繋いじゃったのよ」
ポニーテールのブロンドが風に揺れる。

「告白して断られて、シオンが慰めてくれる。それがお決まりのルーチンワークみたいになって、そばにいるから安心してた。いなくなったりしないって思ってた」
「シオンが？」
アンジーが唇を噛みしめる。そういえばさっき。

「もしかして、ツタにも、言われちゃった？」
目に見えてしおれた。雨に濡れた森のような目。

「……もしよ、もしそのとおりだとしても、よりによってツタに言われたくなかったわ。あたしはずっとツタに恋してたの。そう信じてたのに」

共感した。
同情もした。

最初は間違いなく恋していた、今も恋しているつもりの相手に「他の男が好きだろう」なんて、そりゃあ言われたくない。女のプライドがズタズタだ。でも。のばらは敢えて言った。

「……シオンだって、ツタへのあなたの気持ちを知ってたわ。それでも慰めて支えてくれたじゃない。あなたを好きでも」

アンジーの顔からはらりと色が消えた。のばらをみつめる緑の目は痛いほど開ききって、ぽかんとした口は言葉を失っている。あ、と思ったが後の祭りだ。

「シオンが？　……あたしを、好き？」

一転して険しくなったまなざしで、のばらに迫る。
つかみかからんばかりだ。

「嘘よ！　昨日会ったばかりでどうしてわかるの？　違うわ、違うって言って、言いなさいよ！」
「どうして」
「どうして？　あたしはずっとツタに片思いして、シオンにこぼして、愚痴を言っては慰めてもらってたのよ？　それってつまり、何年も何年もシオンにひどいしうちをしてきたってことじゃない！　あんまりだわ！　自分で自分が許せない！」

ほんとはシオンが好きで、シオンも好いてくれているなら嬉しいはずなのに、アンジーの心は罪悪感と義憤で一杯らしい。自分への怒りなのか目が潤んでいる。

「自分がそんなずるい女だったなんて！　あぁもう泣きたい。どうしよう、ツタにもシオンにもこの後、どんな顔で会えばいいのよ？」

頭を抱え込んだと思うと、ぱっとブロンドを振り乱して顔を上げ、立ち上がろうとする。

好きだなとのばらは思った。直情径行で激しいが、自分に都合よくねじ曲げたりごまかしたりしないところが好ましい。姿形も性格も全く似ていないのに、なぜかすみれを思い出す。

叶えてあげたいと思った。自分はさておき、彼女の恋を。
でも彼女は逃げ腰だ。

「だめ、会えない。ローマを出てイギリスに帰るわ、ホテルに戻って」
「臆病者」

低い声はアンジーをぐっさりと差し貫いた。弱々しい目つきを平然と見返して、のばらは容赦なく追い打ちをかけた。

「敵前逃亡なんて、軍人の風上にも置けないわ」
「元軍人よ」
「二人に軽蔑されたいわけ？」
「他人事だと思って」
「他人事だもの」
「だって、だったら、どうしろっていうのよ？」
アンジーはパニック寸前だ。

「もう一度聞くわ。あなたが欲しいのはどっち？」

アンジーの苦しみはのばらにもわかった。信じていた事実と突きつけられた真実、心を二つにちぎるような感覚と向き合うのはつらいし、見極めるのは難しい。

だが、アンジーは持ちこたえた。
両脇に垂らした手を握りしめて、必死で言葉にしようとする。

「……恥知らずだけど、今は、シオンを、失いたくない」
「だったら勝ちに行かなきゃ」
「……は？」

あっけらかんと言われた意味が、アンジーにはわからなかったようだ。両目に大きく疑問符が浮かんでいる。今日一番の晴れやかな笑顔で、のばらは応えた。

「恋は女の戦場よ。戦うと決めたら必要なのは装備ね。買い物に行きましょう。それから出陣。いいわね？」

座っていた場所からするりと降りて手を差し伸べた。アンジーは未だにわけのわからない顔だが、のばらはすでに勝利を確信している。アン王女の恋は実らなかったけれど、アンジーの恋はきっと、大丈夫。

おそるおそる載せられた彼女の手をぎゅっと握ると、ヘップバーンに負けない気分で軽やかに階段をかけ降りていった。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　next　＞＞