どこからどうみても、仲のいいカップルの観光旅行だった。

サン・ピエトロ広場を歩くローズの足はスキップしていた。寺院をバックに立ち止まると、シオンにカメラを渡してにっこり笑ってみせる。二枚、三枚とシャッターが切られると、今度はシオンを立たせた。

「笑って。スマーイル！」

シオンが初めは仕方なく、二度目は気を取り直し、三度目でようやくまともな笑顔を見せる。双眼鏡越しに、にらんでいる女がいると気づいていないのだろうか、ほんとうに？

「あんな女に笑ってやるなんて！　バカ！バカ！シオンのたらし！」

隣からの悪口雑言を聞き流したツタは、一瞬だけ目を閉じて神様に詫びた。カトリックの総本山が目の前だ。信じていない神様でも申し訳ない気持ちになるし、とばっちりを食らいたくない。バチを当てるなら彼女だけにして欲しい。

「動くわ。ツタ、行くわよ」
「アンジー、引っ張るな」

双眼鏡をバッグに放り込んだアンジーが、問答無用でツタの腕をつかんで走りだそうとする。その拍子に隠れていた石柱にぶつかって、痛みに顔をしかめたツタが悪態をつく。

畜生。何やってんだ、俺は。

朝から何度も繰り返しているフレーズだが、悲しいことに答えはない。口の悪い二人組に、神様がお告げをくれるとも思えなかった。


『シオンを借りるから』

昨夜、ローズが爆弾発言をして去ったあと、アンジーがさんざん文句を言い口説いたにもかかわらず、シオンはやめると言わなかった。

「ツタもなんとか言いなさいよ。相手を横取りされて黙ってるつもり？」
「昨日会ったばかりの俺に何が言える」
文句は一蹴された、とは言いたくない。
「とにかく僕は彼女と出かける。アンジーはツタと過ごせばいい。それで決まりだ。先に部屋に戻るよ」

穏やかな性格だが、こうと決めたら翻さないのがシオンだ。わかっているのでツタは肩をすくめ見送った。隣でアンジーがわなわなと怒りに震えている。今にもグラスを握りつぶしそうだ。危ないところで取り上げたら、地を這うような声が響く。

「ツタ、明日つきあって」
「いいぜ。どこに行きたい？　どこでもいいが」
「尾行するわ」
「……は？　今なんて？」
ツタらしくないまぬけな声を、憤怒の声が蹴散らす。

「尾行よ。あんな女狐にシオンの何がわかるっていうの？　何か企んでるに違いないわ。しっぽをつかまえるんだから」
「……化けてるわけじゃないと思うが」
「十時って言ったわよね。九時半にホテルの外で待機よ」
「アンジー、本気か」
「観光客に紛れるからそのつもりで。シオンに勘づかれないよう、先に迎えに行くから、いいわね」

良くない。
全然良くないが、アンジーは聞く耳などもっていなかった。

三人で朝食を取った後、わざわざシオンに見せつけるかのように部屋までツタを呼びにくると、そのままホテルの外で待ち伏せた。隠密行動はお手のものだが、バカンスにローマで、しかも仲間を相手に？

「ターゲット出たわ。作戦開始」

なんの作戦だよ。
言う前に歩き出したアンジーに、ツタは従うしかなかった。


最初はサンタンジェロ城だった。テヴェレ川を眺めてからサン・ピエトロ広場で写真を撮ると、美術品一杯の寺院に入らず、二人はタクシーに乗り込んだ。どういうルートなんだろう。

なんとかタクシーで追いかけた先は、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会だった。ここには有名な「真実の口」がある。うそつきが手を入れると噛まれるというあれだ。

かなり地味に置かれているが、すでに二十人ほど行列を作っていた。二人の後ろから並ぼうとするアンジーを、あわてて止める。

「近すぎる。いくら何でも見つかるぞ」
「観光客は列の後ろなんか見やしないもの。早く」

アンジーの険しい横顔に、ツタは盛大なため息を飲み下した。今、抱いている嫉妬と焦燥の正体に、どうして気づかないんだこいつ。

「こっち向くわ、伏せてっ」
「ふぐっ」
頭を押さえ込まれて呻いた。
踏んづけられた蛙じゃあるまいし、何やってんだ俺は。
フレーズは、もはや呪詛だ。

前を伺うと「真実の口」に手を入れて笑っているローズが見えた。行列している観光客の誰もが取るポーズだが、彼女に限ってはポスター撮影する女優のようだ。

白地に薄青い水玉模様のブラウス、生成色の短めのパンツに水色のローヒールパンプス。豊かな赤茶の髪は編み込んでうなじを出し、すっきりまとめている。

きれいだよな、畜生。出会ってまだ二日だというのに、彼女への欲求はどんどん大きくなる。激しくなるのに、何やってんだ俺は。

写真を取り終えると、二人はその場を後にした。
アンジーが即座に列を抜ける。
「ツタ、早く」
「せっかく並んだのに撮らないのか」
「あんな間抜けな石の顔に手を突っ込んで何がおもしろいのよ」

そのために並んでいる観光客の真ん中で、大声で言うか？
注がれる非難の目を逃れるためにも、ツタは急いでアンジーの後を追いかけるしかなかった。


彼らは歩いてフォロ・ロマーノに入った。ツタも何度か来たことがある。以前訪れた時は、二千年を越えて在り続ける遺跡に感じ入ったが、今日はそれどころではない。遺跡でかくれんぼうをしている気分だ。

「ああっ、もう、また腕を組んでる」
「そりゃ組むだろう」
「笑ってるー」
「そりゃ笑うだろ」
「石投げてやろうかしら。手榴弾がいいかも」
「……勘弁しろよ」

日も高くなってきた。アンジーのボルテージと陽射しの暑さで、こっちが先に参りそうだ。華奢に見えて健脚のローズは、フォロ・ロマーノからコロッセオへ、それなりの時間と距離を歩いても、一向に疲れた様子がない。あちこち指さしてはシオンに話しかけ、会話を引き出している。

シオンは元々、筋金入りのフェミニストだ。女性に決して乱暴はしないし、緊急時を除いて徹底したレディーファーストを貫く。愛想の権化と呼びたいくらいだ。

とはいえ人間だから愛想にも、上辺と本気で天地の差がある。どうやらローズを気に入ったらしく、愛想のレベルが最上級だ。その分、アンジーの機嫌が最低レベルに落ちている。

「信じられないくらいバカね。鼻の下伸ばしちゃって」
「無理言うなよ。男ならふつうだ」
「ツタ、どっちの味方なの」
「敵味方に分かれたつもりはないが」
「男ってバカばっかり！」
それでくくられては身も蓋もない。

コロッセオを出た二人は、テラス席のあるカフェに入った。昼食だろう。助かったとツタは思った。アンジーの機嫌が悪いのはたぶん空腹のせいもある。

「俺たちも飯にしようぜ」

ファーストフードを主張するアンジーを引っ張って、同じくテラス席のある隣のカフェに陣取った。ビールを頼むとアンジーの目がつり上がったが、かまうものか。パラソルの下、仲良くワイングラスを合わせる二人が見えるのだ。飲まなきゃやってられない。

並々と注がれたビールをツタは一気に飲み干した。アンジーは手も着けないで、シオンたちをにらんでいる。ピザを一枚平らげてから、ツタは言った。

「まだ続ける気か」
「もちろんよ」
「一日あいつらを眺めて過ごす？　ハッ」
不機嫌な顔を見据え、ツタは鼻で笑った。

「みっともないな。焼き餅もいい加減にしたらどうだ……あちっ」

ピザのチーズで舌を火傷したので、ビールを流し込んで冷やす。そこでアンジーが固まっているのに気づいた。正気を疑うような目つきだ。

「焼き餅？　あたしが？　誰に」
「ローズに」
イスにふんぞり返って断言する。

「どう見たって、旦那の浮気を監視する女房だろ」
「シオンのこと？　あのね、あなたに何遍告白したか忘れたの？」

怒りで顔を真っ赤にしている。常にストレートな物言いは、出会ったときからずっと気に入っているが、アンジーの弱点は柔軟性に欠けるところだ。思い込んだら百年目とも言う。

「だったらここで何やってんだ？」
「何って」
「俺とのデートがお膳立てされたってのに、わざわざ他人のデートを尾行する？　おまえがこんなことしてる理由はなんだ？」

紅潮していたアンジーの顔がだんだん青ざめていく。
ツタはだめ押しした。

「ローズに嫉妬して、シオンを追いかける理由を、言ってみろ」
「違う！」

テーブルを叩いて立ち上がったアンジーの顔は、青を通り越して白かった。目だけが思い切り見開いている。わなわなと唇が震えて、言葉が作れない。

「あたしは、あたし、が好きな、のは」
「大きな声出してどうしたの」

予想外の顔が現れて、さすがにツタも焦った。アンジーの後ろにローズが立っている。向こうからシオンも歩いてくる。いつのまに。アンジーはかすれた声しか出ない。

「なん、で」
「尾行ならシオンがとっくに気づいてたわよ。午後もついてくるなら、いっそ合流しようと思って」

ツタは空を仰いだ。互いに手の内は知り尽くしている。気づいてないフリをしていたわけか畜生。近づいてくるシオンを見て、アンジーの顔色が赤と白と青のまだらになる。ローズが不思議そうな顔をする。

「アンジー？」
「あ、あたし……帰るっ」

立ち上がったアンジーは、バッグを振り回すようにしてテラスから飛び降り、逃げ出した。シオンが立ち止まってぽかんとする。動いたのはローズだった。

「追いかけるから」
「は？　君が？」
「夕方には戻るわ、たぶん」
「おい、ローズっ」

ローズは健脚の上に俊足だった。パンプスでよく走れるものだ。立ち止まることなくどんどん小さく、見えなくなっていく。出遅れたツタが諦めて腰を下ろすと、わけのわからない顔でシオンがアンジーの席に座った。

「なんで尾行なんか」
「アンジーに聞けって」
「そのアンジーは一体どうしたんだ？」

言えるわけがない。お手上げとばかりにホールドアップしてみせると、眉を寄せたシオンは、泡の消えたビールをぐいっと飲み干した。ウェイターを呼び止める。

「もう一杯」
「いや三つ四つ持って来てくれ」

二人の目と目があって、了解した。女たちに振り回され、取り残されてしまった。何やってんだ俺達は。こうなったら飲むしかない。

ヤケ酒のふたりは、ヤケ食いも兼ねることにして、メニューの上で頭を寄せ合い物色し始めた。





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