ホテル最上階のバーでは、生バンドがジャズを演奏していた。薄暗い照明が所々に闇を点在させ、明かりと闇をまだらにまとった客は、あるいは話しながら、あるいは踊りながら、楽しげに泳いでいく。

たくさんの人の中、のばらの目はすぐに一組のカップルを捕らえた。ツタとあのブロンド美女だ。昼間見た険しさが嘘のようなうっとりした表情でツタに抱かれ、ステップを踏んでいる。

ツキッと、のばらの胸が痛んだ。
嫉妬？　そんな冗談おかしすぎて、笑うこともできやしない。

アラシは一匹狼だった。群れず縋らず頼らず、いつだって一人だった。担当編集だったイナリを除けば『友達』どころか、『知り合い』すらのばらは知らなかった。

でも、ツタはアラシじゃない。
『仲間』がいたことに驚くなんて、どうかしている。


昼間、ホテルのエントランスで出くわしたふたり。強烈な容姿の男女に迫られ、仕方なさそうにツタは、のばらを紹介した。女性はアンジー、男性はシオンと名乗った。

「仲間なんだ。ここで合流する約束でね」
「すっかり忘れてたんでしょ。何時間待ったと思ってるの」
「アンジーってば、落ち着いて」
「シオンは人が良すぎるわ」

アンジーは輝くブロンドをゆるく編んで背中に垂らしていた。短いタンクトップとクロップドパンツ。シャープな眉の下のグリーンの目は、雌ライオンのように爛々と見据えてくる。今にも飛びかかってきそうだ。

比べるとシオンは冷静だった。銀色のストレートの髪が肩まで伸びている。シンプルな白いシャツにスラックス。青い目は朝靄のかかった湖色だ。おっとりしているようで眉間の狭さが繊細さを示している。彫りの深い貴族的な顔が心配そうにアンジーを伺っていた。

二人が昼から待ちぼうけしていたと聞いて、のばらはひとまず引くことにした、というよりも逃げを打った。

「私がドライブにつきあわせたの、ごめんなさい。夕食は三人でどうぞ」
「そりゃないだろう、ローズ。こいつらは気にしなくても」
「何ですって？」
「アンジー、ツタも」
「なぁローズ」
「会ったばかりの人たちから恨みを買いたくないわ」

はっきり言ったのにツタは腐るしアンジーは怒るし、シオンは困り顔だ。周囲の視線の痛いこと。アンジーの『浮気者』発言が想像を駆り立てているに違いない。他人のゴシップは最上の娯楽だ。

とりあえずその場を納めるために、夕食後に最上階のバーで落ち合おうと提案したのばらだったが。


エメラルド色のドレスに着替えたアンジーの目がハートになっている。ここで乱入したらまた恨まれる。噛みつかれちゃたまらない。

ふたりから隠れるようにして、のばらはフロアにもう一人を捜した。薄暗く込んだ店の一角で、テーブル席に座っている彼。女性が蜜のように集っていないのは、孤高の霊峰のような雰囲気のせいだ。それをものともせず、彼の隣にするりと腰掛けると、彼が目を見張った。

「こんばんは、シオン」
「ローズだったね。昼間はすまなかった。ふたりは」
「踊っているのを見たわ。邪魔したら殺されそう」

シオンは困った顔をした。見た目はたおやかだが、弱々しさは微塵もない。アンジーのように敵意を振り回さないのは性格だろう。だから、彼に確かめておきたかった。

「アンジーはツタとつきあってるの？」

他人の横恋慕を非難する気はないが、のばらはそういう趣味ではない。ストレートな問いにシオンは目を白黒させると、フロアをちらりと見てから、ため息になる。

「いや。アンジーはずっとツタに恋しているが、告白しては玉砕している。ツタにその気はないんだ」

だから余計に敵意むき出しなのか。でも。

「どうしてかしら。あなたたち、仲がいいんでしょう？」
「親友だよ。もう十年以上」
「ってことは相性もいいのよね？　どうしてツタはその気にならないの？　とびきり美人だし可愛らしいのに」

のばらの言葉に今度は、眉を寄せて疑わしげな顔になった。

「噛みつかれたのに、よく言えるねそんなこと」
「だからよ。さっぱりはっきりして見えるわ。女性じゃなかなかいないのに、ツタったら見る目ないわね」

本心だった。恋する女性の心理はよくわかるし、策を弄するより好感が持てる。のばらの本気が伝わったのか、シオンもうなずいた。

「そうなんだよ。アンジーは素敵な女性なんだ。なのにツタときたら見向きもしない。遊びの恋ばかりで」
「だからじゃない？」
「何が」
「彼が遊びの恋しか望んでいないなら、アンジーを振り続けるのは彼女のためよ」

シオンが愕然とする。今の今まで思いもしなかったようだ。近いほど見えないこともある。

「彼なりに彼女を大事にしているつもりかも」
「……認めない」
唸るような声だった。

「それが彼女のためだと思っているなら間違いだ。ツタが相手をとっかえひっかえするのを見せつけられても、諦められないのに」

隠している本心をのばらは読み取った。シオンのグラスを取りあげ飲み干す。強い酒も今の気分にはちょうどいい。彼に手をさしのべる。

「踊ってくれる？」
「あ、あぁ」

周囲の女性の羨望のまなざしを浴びながら、フロアに出た。彼の肩に手を預けてスローナンバーに揺れていると、シオンがためらいがちに尋ねてくる。

「ツタとつきあうつもり？」
「だったら？」
「その場限りの恋でいいなら、ツタでなくても」
「アンジーのためにやめろって？」

聞き返されて、決まり悪そうに横を向いた彼の、目が釘付けになった。アンジーがいるのだろう、あのうっとりした顔でツタを見上げて。

「……僕は彼女に、いつも笑っていて欲しいんだ」

のばらも知っていた。手に入らない相手の幸せを願う気持ち。たとえ叶っても自分は何も得られない、それでも彼が、彼女が、幸せなら。笑っていてくれるなら。

わかりすぎるほどわかるから、彼の頬にキスをした。こっちを見たシオンがびっくりしている。パチパチと激しく瞬きしている。

「いい人ね、シオン」
「ローズ？」
「だったら明日は、ツタの代わりにつきあってちょうだい」
「……僕が？」
「約束よ」

つま先立ったのばらは、今度は唇にキスをした。のばらにすると共感と慰め、同士としてのキスだが、彼は驚きすぎて身動きもできないらしい。荒々しいヒールの音がした。

「何やってるの、シオン！」
「え、……アンジー？　うわ」

膝上丈のドレスの腰に手をあて、頭から湯気を立てている。それを見たのばらは首を傾げ、ふうんと思った。意外ね、などと考える間に、シオンに怒鳴り散らしたアンジーはのばらにも食ってかかる。

「どういうつもり？　あなたが狙ってるのはツタでしょう？」
「彼も素敵だし」
「な、な、な」

湯気どころか熱湯を噴き出しそうだが、全く意に介さない顔で、のばらはアンジーに宣言した。

「明日はシオンとデートすることにしたわ」
「なっ、んですってぇええ」
「あなたはツタと過ごせば？　シオン、明日の朝十時にエントランスで待ってるから」
「ローズ！」

素早く逃げたのに、エレベーターホールでツタにつかまった。見上げる顔はともかく、目は笑っていない。

「どういうつもりだ」
「言った通りよ。明日はシオンを借りるわね」
「乗り換える気ならやめとけよ。あいつはアンジーにぞっこんだ」
「知ってるわ」
ツタが眼を見開く。

「たった一人を想う男性って、素敵よね」

のばらの真意を図るようにツタがじっとのぞきこむ。そこに来たエレベーターにのばらはさっさと乗り込んだ。

「お休みなさい」

ひらひらと手を振るのばらの前で、ツタのしかめ面を挟むようにして扉は閉まった。クスッと笑ってから真顔になる。

シオンはアンジーを、アンジーはツタを、ツタは私を追いかけている。
私は。
どうするつもり？

一方通行の先は、のばらにもまだ見えていなかった。





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