のばらの運転する車は、ローマ市内から城門をくぐり抜け、高速道路に入った。周辺はやがて見渡す限りオリーブ畑になる。

この国を訪れるのは何度目だろう。

初めてイタリアに来たのは商社勤務時代、出張だった。会社を立ち上げてからは、買い付けのため頻繁に行き来しているが、考えてみるといずれも仕事がらみで、観光の機会は限られていたし。

仕事以外の連れがいるのは初めてね。
横目で助手席を見る。

見るからに男らしい男だった。けれどそれを主張せず、引くことも知っているようだ。のばらに運転を任せることにもこだわらないし、どこに行くのかとも聞かない。決定権を譲る余裕が好ましかった。いるようでいないタイプだと思う。

夏の陽射しは強いが、遠くの稜線には、絵に描いたようなこんもりした木が点々と並んで、のどかな気分になる。


「で、目的地はあるのか」

ツタがようやく口を開いた。その口調は「なくてもかまわない」と言外に伝えてくる。単なるドライブもそれはそれで楽しいが。

「ティボリよ。ヴィラ・エステを見たくて。行ったことある？」
「話は聞いたことがある。噴水が見事だとか」
「ホテルで聞いたら片道一時間ですって」
「ドライブにはちょうどいいな」
「でしょう？」

会話にリズムがあるのに嬉しくなる。ツタがちらとこっちを見た。のばらの口元に注がれるまなざしが焦げるように強い。さっきのキスが、昨夜のキスまで唇に甦って、熱い。求められているのを肌で感じるが、のばらはじっと堪えた。

恋をするつもりだ。なにがなんでも。
甘い乙女の心持ちからは百キロも千キロも遠い決意だが、切実なのだからしょうがない。

昨夜、気づいた事実が悔しかった。とっくの昔に振られて、振って、それどころか死んでしまった男にまだ囚われているなんて、情けなさすぎる。祖母は正しいと思った。どうしても恋をしなきゃ。

とはいえ、相手も知らずにベッドインするほど無謀な若さはない。大人の恋は大人なりの基準を持って相手を見極めなくてはならない。ならないのだが、空は青く太陽はまぶしく、花も景色も空気までが恋をしなさいと叫んでいて、煽られそうだ。


「運転、うまいな」
ドアに肘をついてこっちを見ながら、ツタが楽しそうに言う。

「高速よ？　うまいもなにも、とばすだけでしょ」
「そんなことないさ。とばしてもぶれない。うまいよ」
「ありがと。いつもより慎重だから」
「へえ？　じゃ慎重でなかったら？」

にっこりしたのばらは、アクセルを踏んでぐんと加速した。彼がヒュウと口笛を吹いてのけぞり、笑いだした。
「ますますいいね」

また嬉しくなった。うんいいかも。期待が膨らむ。スピードもスリルも久しぶりだ。のばらの心は吹き抜ける風を分け、先へと走った。



ティボリはローマの東にある。穏やかな気候と豊かな森に囲まれた丘陵の街だ。古代ローマ時代から上流階級の保養地で、著名な別荘も残っている。

中でも名高いひとつが、ルネサンス期に建てられた「ヴィラ・エステ」と庭園、数々の噴水だ。今回はどうしても来るつもりだった。来て良かったと心から思った。カメラのフィルムが何本あっても足らない。

「またなくなっちゃった、もう」
「……どれだけ撮るつもりなんだ」

さっきから何度もフィルムを取り替えるのばらに、彼が呆れ顔をしている。景色の前でポーズを取ることなど皆無で、ひたすらシャッターを切り続けるだけだから、呆れられてもしょうがない。

「もしかしてカメラマンかい？」
「カメラマンなら機材も枚数もこんなものじゃすまないでしょ」
「そりゃそうだ」
答えるよりも撮ることにのばらは忙しかった。目的はここの見所でもある噴水だ。

それぞれ趣のある名前がつけられている。オルガンの噴水、ネプチューンの噴水、百の泉の小道、などなど、大小併せて五百もの噴水があると言うから驚きだ。そのどれもが懲りに凝った造りで、緑と水とが調和している。青い空にしぶきをあげるさまは、夏の暑さをひととき忘れさせてくれる見事さだ。

全部を写真に撮るのは無理なので、めぼしいところに絞ったつもりだが、用意していたフィルムはあっという間になくなった。その間、彼は呆れながらも、のばらの自由にさせてくれた。有り難かったが、恋をしようとする女性にはとても見えまい。

「水が豊富な土地なんだろうが、それにしても贅沢だな」
「……すてき。すごく絵になるのね。昼は陽射しで、夜は灯りで。ロマンチックね」
「何百年も維持されているわけだ」
「うーん、欲しいわ」

のばらの本音に、ツタが目をぱちくりさせた。
聞き違いかとこっちを向く。

「欲しい？　噴水が？」
「そう噴水が」

繰り返したのばらはまた自分の考えに没頭してしまった。バカンスだけれど、バカンスだけで生きられないのが三十代だ。写真を撮りまくったのにも理由がある。

ブライダル事業を立ち上げると決めた時から、ブライダルハウスの建設は視野に入っていた。結婚式という大きなイベントをトータルコーディネイトするのが、のばらの究極の夢だから。

すでに設計には着手している。実現するにはまだ数年かかるだろうが、その分熟考できる。作るなら最高、最上のものでなくては。庭はまだまだ構想の段階だ。是非噴水を作るつもりだった。新郎新婦をうっとりさせるようなロマンチックな噴水。水道代を考えるとやっぱり循環式ね。

クスクス笑い声がして、我に返った。相変わらずサングラスをかけたままで、ツタがおかしそうに笑う。

「可愛いらしいな、君は」
「可愛い？　考えていたのは仕事のことなんだけど」
「何であろうと、君は夢見ていた。そうだろう？」
さっきから彼を放りっぱなしだというのに、ツタの口調に揶揄はない。
「夢見る女性は可愛く見えるものさ」
素顔を覗かれたようで気恥ずかしくなって、ちょっと突っかかって見る。

「それって偏見じゃない？　夢見る男性も可愛らしいと私は思うけれど」
「意見の相違だな。子どもならともかく、男は夢を見ない。もちろん」
そこで彼は意味ありげに口元を歪めた。
「女性の夢は別だが」

表情も言い方も下品にならないのは人間性だろう。
逆にドギマギさせられるなんて。
手強い。
わけもなく思って、突っぱねる。

「意見の相違ね。夢は誰にでもあるはずだわ。それに私は、男性の夢は見ないのよ」
夢は見ない。
必要なのは現実だ。
「かまわない。俺が欲しいのは夢じゃなくて、現実の女性だから」

見透かされた気がした。彼への興味、恋への欲望。
でも、そうやすやすと乗せられたりしないから。

「頭がいいのね」
「軍にいたんだ。戦略には長けている」
元軍人か。簡潔な言葉遣いと精悍な容貌はそのせいかとうなずけた。
「いた、ってことは以前の話ね。今は何を？」
「休暇だ。アバンチュールには必要ないだろ？」

質問をかわされると警戒心もわいた。頭がよくて見た目も良いだけでは足りない。少なくとものばらにとっては決め手にならない。

「どうかしら。それよりお腹がすいたわ、お昼にしない？」

肩をすくめ、ツタが手を差し出した。
「何が食べたい？」
「山盛りのパスタ」
「探しに行こう」
「ありがと。そうだ、せっかくだから一緒に」

通りかかった他の観光客に頼んで、噴水の前に彼と並んだ。のばらの手をにぎった彼が、指の関節の内側を親指の腹でこする。官能的な刺激を感じながらも、シャッターが切られる間、のばらは笑顔を保った。


一枚だけの彼と自分の写真。
駆け引きは始まっていた。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　next　＞＞