ツタは驚かされた。
彼女の涙と、強いまなざしに。


泣く女も、にらむ女も珍しくはないが、たたえた涙を、断固として目の縁で押しとどめ、その奥から射ぬいてくる女は初めてだ。

怒りを感じた。何に、誰に対してなのか。噛みしめた唇が切れそうなほどの強い怒りだ。その対象にはなりたくない。

「……ったく。冗談じゃないわ」

薔薇の唇からこぼれた言葉に、さらに驚いた。
日本語だ。

ツタは語学に長けており、いくつもの言葉をあやつる。それでも日本語を覚えたのはボディガードに転職してからだし、こうした独り言はスラングが多くて、聞き取るのはもちろん意味もわかりづらい。


「ここまできたら愛も呪いも同じじゃない。何年経ったと思ってるの、いつまでも縛られるなんてごめんだわ、ロクデナシ。女たらしのゴクツブシの遊び人のスットコドッコイ」

イントネーションから悪態だろうと察したが、半分以上は聞いたこともない単語ばかりだった。女たらしや遊び人はともかく、ロクデ？　ゴクツブ？　スットコドッコイってのは日本のオノマトペーか？

それにしても流麗な響きだ。たった今まで見事な英語だったのに、悪態が日本語ということは日本人か。意外だ。いわゆる日本女性のイメージとはかけ離れている。まあ、イメージほどいい加減で偏ったものもないが。


悪態と覚しきものをひとしきり垂れ流したあと、憑き物でも落ちたように彼女は英語に戻った。

「あぁごめんなさい。アバンチュールって気分じゃなくなっちゃったわ。今夜は失礼させて」

あっけらかんと言われて、ただ待っていた自分がまぬけに思える。

「酔っぱらいが倒れているってフロントに知らせてくれたら、とても感謝するけど」
「で？　その感謝はいつ示してもらえるんだ？」

言うだけ言ってさっさと立ち去ろうとするので、あわててツタは声をかけた。振り向いた彼女は少し考えるように首を傾げた。

「時間はあるの？」
「たっぷり」
「なら明日、十時に一階のカフェで」

今度こそ去っていく背中をツタは見送った。
緑のドレスを覆う赤い髪。やっぱりバラだ。

足下に転がっている男を見て、笑いが漏れた。面白い。これぞバカンスじゃないか。お姫様、いや女王様の感謝と引き替えなら、安い用事だ。

降ってわいたアバンチュールの予感に、フロントに向かうツタの口元は、思い切りゆるんでいた。



翌朝十時前。チェックアウトの時間で、フロントは込み合っていた。だがこの時間は出立がほとんどなので、その向こうにあるカフェは半分以上空いていた。

ずいぶん早く目覚めてしまったツタは、朝ご飯も兼ねてすでに一時間も前からカフェに陣取っていた。さっきから何度時計を見たことか。みっともないぞ、新聞を読むフリくらいできるだろうと自分に言い聞かせる。

手元に視線を落として数秒だった。
「おはよう」

待ちに待った声をぱっと見上げた。夜が似合うと思ったけれど、意外にも彼女には朝の光も似つかわしかった。

ミントグリーンのブラウスに白いパンツ、サンダルもグリーンで、赤いペディキュアがルビーのようだ。赤褐色の髪はうなじでひとまとめにしてあるが、量感があるので背中に花束のように広がっている。

「夕べはごめんなさい」
「いや。あのお荷物はフロントに任せたよ」

お荷物と聞いて大きな瞳をくるりと回し、おかしそうに口元をすぼめる。キスをせがまれていると錯覚しそうだ。

「助かったわ。御礼にドライブはいかが？」
「もちろんだ」

感謝としては予想以上だ。ツタは二つ返事で腰を上げた。ホテルを出る彼女に後ろから尋ねる。

「ローズと呼ばれていたよな。ローズでいいのか？」
「あら」

彼女は驚いたように足を止めた。

「名前も言ってなかったかしら。ローズ・ツルマキよ」
「やっぱり日本人かい」
「やっぱりって？」
「昨日の見事な悪態、あれは日本語だったろ？」

目を丸くしたローズが頬を赤くしたと思うと、弾けるように笑いだした。明るい、輝くような声で、通りすがる人の注意を集める。

「日本語ならばれないなんて思っちゃだめね。全部わかっちゃったの？」
「いやろくに、だが耳には心地よかった。今度、意味を教えてくれ。ロクデナシ？　ゴクツ、ブ？　そうだ、スットコドッコイは是非」
「やめて、お腹がよじれそう。おかしな人ね、あなたって」

たどたどしい悪態に、ローズがまた吹き出す。
笑顔に見とれていると、今度は彼女が尋ねてくる。

「あなたの名前は？」
「アメリカ人だ。ツタ・クライン」
「会えてうれしいわ、ツタ」

差し出された手を握ると、我慢できなくなって引き寄せた。昨日から何度も思い出した彼女の唇は、熟れた果実のようだった。しっとりして複雑で甘いだけじゃない。

もっと深めようとしたツタの腕から、ローズはするりと抜け出し、用意されてあった車に向かった。白のコンバーチブル。当然のように運転席に座ると、ツタをに挑戦的な目を向ける。

「出かけましょう」

大人の態度で微笑みをバラのように咲かせる。一筋縄ではいかない相手だと思ったが、望むところだ。

助手席に乗り込み、サングラスを取り出しながら、ツタは改めて心を躍らせていた。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　next　＞＞