やっちゃったわ。
情けなく倒れている男を見下ろして、のばらは口をよじった。


ウエディングドレスの買い付けをした店で今夜の招待状をもらった。ショーは素晴らしかったし、パーティーも楽しかった。顔見知りもいれば初対面もいる。人に会うのは好きだし得意だ。休暇の始まりとしては有意義だったと思う。彼が酔っぱらいさえしなければ。


「待てよ、ローズ」

トニーはイギリス人で、数年前からの知り合いだ。仕事はできる男なのだが、今夜は早い時間から飲み過ぎたらしい。奥さんと離婚協議中とも聞いた。さもありなん。愛も仕事も酒で失うつもりかと、忠告するほど親しくもない。


「何かご用だったかしら、トニー」
「僕の用はわかっているはずだ」
「ごめんなさい、思い出せないけれど」

あるレースブランドと取引を考えていたが、なかなかアポイントがとれない。トニーが個人的に繋がりがあるのは知っていたので、つい尋ねてしまった。聞かなきゃ良かった。

「君がその気になれば」
「あなたは取引に口は出せないわよね」
「何事にも、裏があるのさ」

舌なめずりするような目つきに堪忍袋の緒が切れそうだ。取引を左右する権限など一切ないくせに。それともあると思ってるんだろうか。酒の妄想だ。

「you　scratch　my　back？」

魚心あれば水心って？　などと言わなければよかった。通じないどころか隙を与えただけなんてバカバカしい。酔ってなければもう少しまともなのに。強引に抱き寄せられ、ドレスの裾へ手を伸ばされる。

「やめてったら、さもないと」
限界だわ。

「なにっ……ぐがっ？」

ためらうことなく股間を膝で蹴り上げた。前のめりになった後頭部へ組んだ両手で追い打ちを食らわせると、あっさり彼は気を失った。それも情けない。


「だから言ったのに」

握り合わせた手を開いて握ってみたあと、足元の彼を見下ろして、のばらはちょっと後悔した。なまじ腕に覚えがあるからつい強気に行動する。庭へ出ないでホールに居れば、こんな羽目に陥らなかっただろうか。それはともかく。

「どうしたらいいかしら」
「どうして欲しい？」

深い声音にぎょっとして身構えた。


暗がりから現れた男は闇をまとったようだった。黒い髪、浅黒い肌にブラックジーンズ。ストライプのシャツが白地でなければ、溶け込んでしまいそうだ。角張った顎と広い額と太い眉に意志の強さを感じる。

のばらの足元を見て、目が細くなった。
笑っている？

「自業自得だな」

黒い瞳は、光の届かぬ深海だ。
用心深く距離を保つ。

「見ていたなら助けて欲しかったわ」
「助ける暇がなかった」
笑い声が耳に心地よくて、つい軽口が出る。

「紳士じゃないのね」
「紳士にはなりたくないな、少なくとも今は」
「どうして」
「紳士は弱みにつけこまない」
瞬きすると、男が目の前にいた。


背が高い。のばらも女性としては決して低い方ではないのに、見上げてやっと目が合うほど。瞳に吸い込まれそうだと思った。身を屈めてくる彼の意図がわかっていて、動けない。

逃げなきゃ。
どうして？
考えをキスが奪った。

暑い夜に負けないくらい熱いキスだった。ぴたりと吸い付き、舌が遊び、離れ、また吸いつく。頑なに閉じた唇に忍び込もうとする巧みさが、忘れていた感情を呼び覚まそうとする。待って、でも。

強情に抵抗していたのばらは、髪に指を差し入れられて身震いした。地肌をこする指の腹の、ざらざらした感触が体の芯まで届く。思わず開いた唇の間へ舌が差しこまれ、意識を浚われそうになる。記憶が囁く。

欲しいのは一人。
たった一人だけで。

「っっつ」

小さく声を上げ、彼が離れた。
指先に目を細め、のばらを見て苦笑いする。

「ブローチか」

彼の指を刺したもの、久しぶりにつけた銀のバラを胸元に確かめながら、のばらは茫然とした。

何を考えていたの、私。
たった一人？
もういないでしょう？

祖母の鋭さに笑いたくなった。

『恋をしなさい』

知らないはずなのに、見通されていた本心。
まだ恋を拒んでいる。
逃げ続けていると。

……逃げる？


悔しさと怒りがどっと心に湧き上がってきた。
目頭が熱くなるのをどうしようもなかった。





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