ほの暗いホテルの庭を、ツタはそぞろ歩いていた。

とっくに日暮れたというのにじんわりとした蒸し暑さはなかなか消えない。風が欲しいと思う。夕立でもいい。見上げると空は星ばかりで、雨の気配はどこにもない。

いいさ。なんといっても休暇。
明日からバカンスだ。


世界的な観光都市であるローマには著名なホテルがたくさんあるが、仕事を終えたばかりのツタは、観光客の少ない静かなホテルを選んだつもりだった。なのに今日に限って人がやけに多い。フロントで尋ねると、ウェディングドレスのショーと、パーティーが開かれるのだという。やれやれだ。

妙にざわついた雰囲気を嫌ったツタは夜まで部屋にこもった。食事に出たのは、うろついていた人波がショーとパーティーに吸収されるのを見計らった時間だ。静かなレストランで夕食をすませたが、まだ部屋に戻る気がせず、庭へと足が向いたのだった。

夜の庭は高低差をつけた生け垣と、点在する灯りで迷路のようだ。かのパーティーは三階の、ホテルで一番広いバンケットホールで開かれていると聞いた。バルコニーで談笑する客が遠目に見える。

ウエディングドレスに結婚に花嫁、幸せな白い祭典、か。あまりにも縁のなさすぎるイベントだとツタの顔に苦笑が浮かんだ。きっと自分を知る誰もが同意するに違いない。


ジューダス・ツタ・クライン。
彼が人に与える印象を色にたとえるなら黒だ。

黒い眉、黒い目。浅黒い肌。肩先まで伸びた黒い髪は仕事の時は結んでいるが、無造作にほどいていると、より危険に見える。

鍛え上げた体や身のこなしは、たとえばデザイナーブランドのスーツで包んでも、もしくはチープなＴシャツとジーンズでも隠しようがない。鋭い眼光をサングラスで隠しきれないのと同じだ。女にとっては罠のような男という噂を否定はしたことはない。


軍隊に入る前も、入ってからも、辞めた後も、彼を求める女はたくさんいた。きれいな女は好きだが、ツタにとってはひとときの楽しみで、長く続く感情は抱けない。

仲間はいる。軍をやめても同じ職場を選ぶほど、強い絆で結ばれている友情はある。だが、それもいつまでなのか。

大きな声がツタの物思いを破った。酔った勢いだろう。パーティーにはいつだって無粋な奴がいる。


視線を落とした小道に、赤いバラが咲いていた。濃い艶のある紅バラは、謎めいた女のようだ。そう思っておかしくなった。女に謎を感じたことなどないくせに。


乱れた足音が響いてきた。三階のバルコニーから庭へ繋がる外階段を誰かが駆け降りてくる。ツタが生け垣に身を潜めたのは、軍と仕事での習い性だが、現れた美女に目を奪われた。


バラを思わせる美女だった。大きな目が後ろをにらんでいる。すぼめた唇はキスを誘う。たっぷりとした赤茶の髪が肩から背中にうねっている。

薄緑色のドレスはカシュクール風だ。巻き付いている身頃が胸から腰までの豊満だがすっきりとした体のラインを露わにしている。布地に代わって抱きしめたくなる。膝丈の裾からすんなりと伸びた足も肉感的で、若さのかなわない成熟した色気を醸し出していた。

そそられる。
ツタが潜む生け垣に近づいたところで、別の声が彼女の足を止めた。

「待てよ、ローズ」
バラを思わせる美女が、『ローズ』？　出来すぎだ。

振り返った彼女は眉根を寄せ、警戒の表情を浮かべている。執拗に追いかけてきた声は男の姿になった。

「ローズ、やっとつかまえた」

いわゆる伊達男だった。服装にとことん気を使って決めるのはいいが、これ見よがしの態度を示さずにいられない人種だ。見るからに金に困っていない分、尊大で見苦しい。女の潜めた眉と鋭いまなざしは、もちろんそれに気づいている。


「何かご用だったかしら、トニー」
「僕の用はわかっているはずだ」
「ごめんなさい、思い出せないけれど」

小首を傾げた女の笑みにツタは感心した。なんて様々な感情を含めているんだろう。注意と拒絶と諭しと許し。残念ながら相手にそれを読みとるだけの能力はない。それどころか恥の上塗りとばかりに言い寄る気満々だ。


「考えることはないじゃないか、ローズ」
「なにを」
「君がその気になればうちとの取引は簡単だ」
「あなたは社長でも役員でもないのよ。取引に口は出せないくせに」

やんわりと言い聞かせられても男は怯まない。

「表だってはね。何事にも裏というのがある」

目が女性の全身をあからさまになぞった。気持ちはわかるが、下衆な輩には同調したくない。彼女の声に警告が滲む。

「you　scratch　my　back？」
「スクラッチ？　背中がかゆいのか」

ツタは空を仰ぎたくなった。教養のあるなしを言える立場じゃないが、ことわざのひとつくらい覚えろと説教したくなる。「魚心ってわけね」という軽蔑を、誘いと勘違いして彼女に手を伸ばす男など救いようがない。

「離して、トニー。違うってば」
「そのつもりで庭に誘ったんだろう」

彼女の目から火が噴いた。気概もある。
白馬の騎士になろうか。

「誘ったんじゃないわ、あなたが勝手に追いかけてきたのよ」
「いいじゃないか、わかってるだろう」
「やめてったら、さもないと」
「なに……っぐがっ」

馬も騎士も要らなかった。
こんなに驚いたのは久しぶりだ。

不埒ふらち　に抱きすくめていた男の体がくの字に折れ曲がるや、脳みそのない頭に組んだ両手が思い切り振り下ろされた。ずるずるとすがる形で男は地面にくずおれた。


「だから言ったのに」

そう言いながら組んだ手を解いて指を曲げ伸ばした後、腕組みした美女は情けない男を見下ろした。小首を傾げた顔の、困ってはいるが同情や後悔のかけらもない表情がいい。

思案げに唇の縁を人差し指でなぞる。その手をつかんでひきよせたい。ウズウズしているツタの心をよそに、鋭い棘を持つバラの化身がつぶやく。

「どうしたらいいかしら」
「どうして欲しい？」

踏み出しながら尋ねていた。はっと息をのんだ彼女が身構える。強いまなざしと赤い唇に心がざわめき、体が張りつめる。


たくさんの修羅場をくぐり抜けてきた自分への新たな挑戦か。
見も知らぬ美しくて危険な女に、触れたくてツタは焦れていた。





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