三月初め。
春を早取りしたかのように温かくて上天気な日だった。

四阿あずまや　のみならず庭も家も花で埋もれんばかり。これを祖父が手配したのかとのばらの胸が熱くなった。無骨で口の悪い祖父は、今では気に入っているアラシにも相変わらず減らず口を叩いてばかりだ。

笑って受け流すアラシに対しすみれのほうが気に病んでいたっけ。ばかねとのばらは思った。溢れんばかりの花が物語っている。孫娘への愛情と結婚を祝う気持ちを。

それは祖母が改装した部屋にも現れていた。新婚の孫夫婦のために押しつけがましくなく、でも隅々まで心配りが行き届いている部屋だった。今更だけれど、変わることのない情愛を注いでくれた祖父と祖母が居てくれて自分たちは幸せだったと感じる。


「お招きに預かりまして。紺野です」

アラシが招いた編集者は体つきは痩せて貧相だが、妙に人好きのする顔と優しい声の男だった。

「すみれの姉です。本日はお越しくださってありがとうございます」
「いや、風来坊をその気にさせた妹さんはたいしたもんです。実は孤独な奴でしてね。どうか末永く添ってやって頂きたい」

冗談めいた言葉からアラシとの親しさ、思いやりが伝わってきて、のばらは思わず笑顔になった。

「こちらこそ、身体が弱くてあまり世間を知らない子です。彼のことや仕事のこと、色々話してやってくださいね」

紺野はまぶしそうにのばらを見ていたが、ふと思い出したように尋ねてきた。

「以前、駅のショッピングモールにある古書店で、あいつの作品が載ってる昔の雑誌を探してませんでしたか？」
思いがけない問いにどきっとした。
「どうしてそれを」

のばらの驚いた顔に、いやいやいやと顔の前で振った手で、紺野は頭をかいた。
「たまたまその場に居合わせたんですよ。覚えてらっしゃらないでしょうが、あそこの店主とは顔なじみでね」

ぱっと突然浮かび上がった記憶。店主と話していた男が確かにいた。あれが？　なんて言えばいいのかわからない。

「まあ」
「作品名をおっしゃったでしょう？　あいつの作品を読みたいなんて奇特な人だと印象に残りましてね。おまけに美人だし」
軽口に応える余裕がない。

「実は私はあの雑誌の編集だった人間で。何冊か手元にあったものだから、店主に一冊譲ったんですよ」
「じゃあ、あれは」
「私が持っていたものです。いやあ奇遇ですね」

にこにこ話す紺野だが、のばらは居心地が悪かった。理由をどう取り繕ったらいいだろう。
「その、妹がつきあっている相手のことが知りたくてそれで」

言ってしまってからさらに焦った。まさかアラシは自分のことまで話してないわよね。ううん、問題はそこじゃなくて。

「すみれに知れたら勝手なことをしてと怒られます。黙っていてくださいますか」
「そりゃもう。それにしても『マドンナ』はまるで妹さんを描いたようでしたね。どう思われました？」

のばらの焦りなど知らぬ気にのんびりと紺野は問いかけてくる。どうと言われても返答に詰まった。すみれを思いアラシを想って読みながら泣き尽くした日がよみがえる。あの本を読み返すことがあるかわからないが、手放すこともできないだろう。

「あの主人公の孤独を癒せるのはマドンナだけなんでしょうね」

言うつもりのなかった本音がぽろりとこぼれて、あわてて付け足す。
「作品の評価なんてできませんが、読めて良かったと思っています。譲ってくださってありがとうございました」

改めて頭を下げるのばらに、紺野はいやいやとまた手を振った。それからのばらをじっとみつめ、つぶやく。

「そりゃ悩むよな」
「は？」
「独り言です。のばらさん」
「はい」
「強くあろうとする人が私は好きですよ」

言わんとすることはわからなかったが、紺野の笑顔は温かかったから、のばらは微笑み返した。

「イナリさん。あんたはほんと美人に弱いな」

主役のひとりがやってきた。日頃の格好からは予想もつかなかったが、アラシは黒のタキシードを見事に着こなしている。切ろうかどうしようかと悩んでいた長髪は、すみれの希望で切らずにゆるく編んで背中に垂れていた。それが女々しく見えないのがアラシらしい。

朝から彼を見る度にのばらの心臓は跳ねた。いい加減慣れたはずが、最後の最後まで困った男だと思う。今も磊落らいらく　な態度で二人に笑いかける。なにしろ身内だけで家の庭で行う式だ。かしこまったところがない。そこでやっと彼の呼びかけにのばらは気づく。

「イナリ？　紺野さん、ですよね」
「コンノコン、って名前なんだよ。コンコンでお稲荷さまってわけさ。すみれと会ったきっかけもこの人なんだぜ」
「ほんとに？」

「絡まれてるすみれを助けに飛び出してったんだ」
「そうだ、白馬の騎士は僕だったのに、どうしておまえがタキシードを着てるんだ？」
「よく言うよ。万年らぶらぶの奥さんに言いつけるぞ」

冗談の応酬に思わず笑いながらも、その場にいるのが苦しくなる。今日だけよ。今日一日。ほらしっかり。

「私、すみれの様子を見てくるわ」
「きれいでしょうね。楽しみだ」
「ほんとにあんたは」

自分が去った後、ふたりが交わした会話をのばらが知る由もなかった。


「後悔しないでくれよ」
のばらの後ろ姿を見送るアラシに、イナリが問う。イナリを見返したアラシは穏やかに笑った。

「まさか」
「だよな。なんたってマドンナと結婚するんだ」
「だろ」
「なら、彼女はなんだ」

「嫁さんの姉さん」
「そのまんまじゃないか」
「そういえば、書いてるよ」
話題を急転換するアラシにイナリがきょとんとする。

「何？　こないだの記事なら締め切りはまだ」
「小説さ」
「……ほんとか？　どんな」
「書けたら見せる」
「そりゃ楽しみだ。マドンナは小説の神様でもあったか」

嬉しそうなイナリにアラシは苦笑し、先立って庭へと案内した。