暖かい部屋に比べれば、廊下はひんやり冷え込んでいた。
それを感じないくらいすみれの気持ちは高ぶっている。
怒っている。

のばらのバカ。
アメリカなんて、どうしてそんな遠くに行くなんて言い出すの。
私をひとりにして。

外はとうに暗く、窓に映るのは自分の顔ばかりだ。自分のことばかり。視線が足下へ落ちた。

違う。私はひとりにならない。
なるのは。

「すみれ」

いつのまにか後ろに立っている、のばら。生まれたときから自分のそばにいて、誰よりも自分を優先して守ってくれた。もしかしたら犠牲にさせたことも多かったのだろうか。今日まで一度も聞いたことがなかった。


「前から行きたかったの？　アメリカ」

ふてくされたように横を向いたままでぶっきらぼうに尋ねると、のばらは困ったように口の端だけで笑う。

「大学のゼミの教授に留学を勧められてたの。本場の英語に触れてみなさい、外へ出なさいって。でも」
「でも断ったのね。私のせい？」

ううん、と柔らかく首を振る。
いつもそうやって守ってくれた。わかってた。

「すみれのそばに居てすみれを守るのは私の権利だった。そうしたかったから選んできたの。そうすることで私も救われていたのよ」

すっとのばらが窓の外へ視線を流した。
映っているのはすみれと、のばら。
二人だけの姉妹。


「私たちは寂しい子どもだったわね。あるべき愛情が足りない分を、私はあなたを愛することで、あなたは私を愛することで、支えあって埋めてきたんだわ」

両親のことは離婚以来互いに触れたことがなかった。触れなくてもわかっていた。お互いの心に傷が残っていること。認めたくないけれど、認めずにいたけれど、自分たちはどちらの親からも見捨てられた子どもだったと。

鏡のような窓を通してみつめあい、さぐりあった手をつなぐ。


「だからってそこに止まることはないの。私たちはもう子どもじゃないから。あなたは愛して愛される人ができた。すみれを守るのは私の役目じゃなくなった」
「のばら」
「寂しいけど、代わりに私は新しい世界へ進める。進まなきゃ。それが生きることだから」
「私が、そばに居てって言っても？」

わがままなのはわかっていても、あまりにも急な変化にすみれの心は怖じ気付いている。

「就職も決まってるのに、ここで、みんなで暮らせないの？」

のばらの眼が痛みを隠すように細くなって眉が寄った。唇は笑みを浮かべたまま、その表情がすみれの眼に焼き付いた。悲しそうな寂しそうな辛そうな、なのにどこまでも優しい、聖母の笑み。


「選ばなきゃ、すみれ。選んで」
「選ぶ？」
「彼か、私か。前に進むか、止まるか」

涙がじくじくと瞼の裏から押し出されて眼の際にこんもりと盛り上がっていく。答えはもうわかっていた。止まることはできない。

進まなければ。
彼とともに。

どんな喜びにもどこかに悲しみは隠れている。
だからこそ人は、喜びを大切にするのかもしれない。


「すみれ？」
「彼と、すす、むっ」

嗚咽でしゃくりあげて語尾が途切れたすみれは、隣ののばらに身を投げた。抱きしめてくれる細くても強い腕。もう、この手に頼れない。別の手が奇跡のように現れたけれど、だからって寂しさはどうしようもない。

「幸せになってね」
「のばら」
「ほら、彼が待ってるわ」


ほどいた腕が泣きじゃくるすみれを押した。その先に立っている彼が、今は涙で見えない。二歩三歩よろめいたすみれを、しっかりと受け止める彼に闇雲にすがった。

「すみれ」

彼を得た喜び、初めて彼に名前を呼ばれた喜びよりも、姉と別れる寂しさがすみれを泣かせた。全てを包み込むようにすみれを抱きしめてくれる、彼。

のばらが、祖父母とふたりを見守る。
イブの夜、すみれの世界は新たに塗り変えられようとしていた。