会えた喜びを勢いにしたすみれは強引に、それこそさらうようにして彼を家まで連れてきた。まず表札に驚かれた。でも、出会った時に名乗った名前をちゃんと覚えていてくれたのが嬉しかった。

さらに彼はのばらを見て仰天していた。すみれにすれば初めてのことではない。のばらはいつもすみれの方が美人だと言うけれど、すみれにない溌剌とした生命力が姉にはあって、大抵の人はそのオーラに眼を奪われる。

そういうとき、これまでは姉を自慢したいくらいだったが、今日に限ってすみれは不安になった。ふたりの様子に違和感を覚えたからかもしれない。彼が眼を閉じる。

そう、姉は大輪のばらだ。もしかしたら彼は自分より、姉に惹かれるんじゃないだろうか。考える自分が嫌で、急せ　いた調子で彼を呼ぶ。

「たけぞのさん」

まぶたを開いた彼がすみれに微笑む。
その眼に力が入って、のばらへ改まった挨拶になった。

「初めまして、竹園です」

毅然とした声に何かが終わって何かが始まった気配を感じたのは気のせいだったろうか。のばらの笑顔がほろ苦く見えたのも。

「どうぞ、祖父母に会ってやってください」
「おじゃまします」

今日初めて会ったとは思えない滑らかな応酬に、すみれの方が面食らいながら後を追った。



夕食はすみれがどれだけ楽天的に考えた場合よりも、和やかで楽しいものになった。のばらのおかげだ。何かと彼に水を向けては、これまですみれが聞き出せなかった彼自身のことを次々と引き出してくれる。たとえば古書店をやっているとか、新聞や雑誌に書評や記事を書いているとか。

彼の態度は今までとは違ってごくまっとうに大人らしく、年長者に対して敬意も含んだ話し方をしてくれるので祖母はすっかり気に入ってしまった。祖父とも経済を論じて知識の広さを感じさせた。隣に座った自分に時々振り返ってくれるのが嬉しくて仕方ない。

すみれにとっては夢のようなイブ。どれだけ気前のいいサンタでもこれ以上はもらえない、そう思っていたら、のばらがとんでもないことを言い出した。


「竹園さん、すみれの身体が弱いことはご存じですよね」

のばらの言葉にギクッとしたのはすみれの方で、彼はごく当たり前のようにうなずいて見せる。

「時々胸が苦しくなるのは知ってます」
「日常生活は送れるんですが、他人のペースにあわせるのは難しいんです。主治医の先生は好きな人、好きなものに囲まれていれば大丈夫とおっしゃってます」
「のばら、今そんなこと」
「大事なことよ」

そうかもしれないが、今ここで言わなくてもとすみれは眉をしかめる。だが、のばらの次の言葉はすみれだけでなく全員を驚かせた。

「唐突で無茶なお願いなのは百も承知です。竹園さん。すみれと結婚してこの家に住んでいただけませんか？」

すみれの思考がぱたりと倒れて静止した。

けっこん？
けっこんって、結婚？
すみれって私のことよね。
私が、彼と、結婚？

「ばかもん！　なんだ突然！」
「そういうことを簡単に言うものじゃありませんよ、のばら」
「そうだ、大体どこの馬の骨ともわからん男に」
「でも、すみれの好きな人よ」

何かおかしい。のばらの言い方はあまりにも疑いのない、まるで。まるで？　もやもやとした正体のわからないもどかしさがすみれを包む。その間ものばらは言い続ける。

「彼だってすみれのことを思って下さってるわ。でなきゃこうやってうちに来てくれないでしょう。だったら」
「待ってくれ。俺、じゃなくて僕は」
「やめて！」

気がついたら腹の底から怒鳴っていた。すみれにしては珍しいことで、祖父母がぎょっとした顔をし、彼も眼を見張っている。のばらだけは予想していたようにちっともあわてない。それがまた癪に障る。

「そんな、指図するみたいに。人に言われて決めることじゃないわ」
「嫌なの？」

のばらが怖いほど真剣な顔で問い返してくる。

「ずっと一生、彼と居たくない？」

ずるい。考えないなんて言えば大嘘つきだ。だからって夢見てたのは彼からのプロポーズで、こんな展開じゃない。のばらを恨めしくにらむ。

「結婚はひとりじゃできないわ。考えてもいない人にこんな脅迫まがいで結婚を迫るなんて」
「考えてないわけじゃない」

思いもかけない言葉が割り込んで、びっくりしながら彼を振り返る。

「俺みたいないい年の男があんたみたいなお嬢さんとつきあうなら、考えるさ。ただ、もう少し時間をかけるつもりだったんだが」

声も出ないすみれに苦笑する彼。目尻にしわができるんだ、何度も見ているはずなのに。

「でもまあ、こういうのはタイミングか。あんたが夢見るようなロマンチックがかけらもなくてなくて悪いが。俺と、結婚してくれるか」

すみれは呆然としてそこにたっていた。双六のふりだしで、いざと身構えてサイコロを振ったらいきなり上がってしまったような気分だ。これは夢よ。夢に違いない。こんなことが起きるなんて信じられない。

でもほんとうだ。
だっておじいさまのあわてる声がする。

「待て、待ちなさい。そんないい加減な」
「ご心配は当然ですが、一応食うに困らないくらいの収入はあります」
「あたりまえだ、そういうことじゃなくてだな」
「おじいさま、馬に蹴られるってご存じ？」
「とりあえず考えてみましょうよ」

祖母まで加勢するので祖父は黙ってしまった。じわじわとすみれに喜びが沸いてくる。だがのばらときたら暴れ馬よりタチが悪い、さらに先走しろうとする。

「式は三月の頭でどう？　二ヶ月ちょっと猶予があるわ。だめだと思えばやめればいいし」

式？　式って言ったの？

「のばら」
「同居の準備も、式の支度もできるでしょ」
「のばらったら」
「いいわよねおじいさま。おばあさまも」
「のばら！」

一晩でこんなに怒鳴ったことなかったわ。頭の隅でそう思う。

「まだ私返事もしてないのよ。どうしてそんなに急ぐの。押しつけがましくて恥ずかしいわ、のばららしくない」

そうだ。のばらは思い切りがよく大胆なこともするけれど、すみれのこととなると用心深くて慎重で、時にすみれが窮屈に思うほどなのに。

「どうして？」
今度はのばらがためらった。

リビングの一人掛けのソファにスカートを広げて座る姉は一幅いっぷく　の絵だ。すみれの編んだチョコレート色のセーターにカチューシャで上げた赤茶色の髪がこぼれている。膝で組み合わせた手は華奢に見えるけれど、とても力強いのをすみれは知っている。

意を決したようにのばらがすみれを見た。
その顔がさっき、彼がのばらに挨拶した時の声音を思い出させた。

何かが変わろうとしている。


「ごめんなさい。もし竹園さんにうちに入ってもらえるなら私、進路を変更しようかと思って」
「進路？　だって、のばらは就職が決まってるじゃない」

自分の結婚についての発言がミサイルなら、次の発言は爆弾だった。

「アメリカへ行こうと思うの」

はるかに大きな衝撃がすみれを襲った。無理矢理乗せられたジェットコースターから真っ逆さまに突き落とされた感覚。

のばらがいなくなる？
そんなことって。

静まり返った座で、考える前に鋭い詰り言葉がすみれの口から飛び出していた。

「嘘つき！　ずっと私を守ってくれるんじゃなかったの？　私を置いて遠くに行ってしまうなんて、そんなの許さないんだから！」

なんて子どもじみてるんだろう。わかっていても止められなくて、それ以上言い過ぎるのが怖くて、すみれは部屋を飛びだした。