去る者追わずのアラシだが、今回ばかりは「さよなら」をそのまま受け入れられそうになかった。のばらは忘れているかもしれないが、洋書の分割払いを始める時に連絡先を書かせてある。

もう一度話がしたい。
とはいえ、中途半端な自分に白黒つけるのが先だ。


すみれとの待ち合わせに行く気になったのはそれが理由だったのか、それとも言い訳に過ぎないのか、アラシ自身にもよくわからなかった。

いずれにしろ行かないとすみれはいつまでも待っているに違いない。寒空の中、無為にすみれを疲れさせ身体にさわるのは避けなくては。それも言い訳だったかもしれない。


待ち合わせ十分前だったが、すみれはすでにそこにいた。ちゃんとコートを着込んでマフラーを巻いて、手袋をした両手を胸元で祈るように握りしめ、必死で周囲に頭を巡らせ、アラシを探していた。

こんなろくでなしを。バカだな。
帰ろうか。このまま帰った方がいいんじゃないのか。


一瞬の躊躇が矢になって届いたのかすみれがこっちを向いた。光輝く表情に喜びと、相反する後悔までアラシの胸に湧き上がる。後悔でなく恐れだったのかもしれない。

「たけぞのさんっ」

クリスマスイブの夕、人であふれる雑踏をかき分け自分へとまっすぐ伸ばされるすみれの手にアラシは逆らうことができなかった。


もう一度会えるかどうかあやふやな態度で別れたからだろう、すみれの喜びようは大きく、勢いのまま有無をいわさずにアラシをタクシーへ連れ込んだ。

「来てくれるって信じてました」
「うそつけ」
「嘘じゃありません」
「くるか来ないかって、すごい顔であちこちにらんでたろ」
「……見てたんですか？　ひどい」

赤い頬でにらんでくるすみれは顔色も良い。元気そうだと安堵して、そこでアラシは気づく。知らないふりで認めまいとしていたが、やっぱり気になっていたらしい。あの後すみれがどうしていたか。

「信じてたのはほんとです。家族にもそのつもりで待っててって」
「家族？」

そういえば家族に会ってくれとかなんとか。
まずい、忘れていた。

「ほんとに家族と会わせるつもりか」
「もちろん」
「せっかくのイブだろう。なあ、俺が来たのは」
「わかってます。来ないと私が待ち続けると思ったからでしょう？」

タクシーのドアの取っ手につかまりながら、すみれはアラシに微笑んだ。

「いいんです。理由はなんでも」
マドンナの笑みでアラシの口は封じられる。
「待っているのは祖父母と、姉だけですし」

ご両親はと聞こうとしてやめた。それぞれに事情はあるし、引き合わされる家族は少ない方がいい。だがなんと言って彼らに会えばいいのか。真面目に悩んでいる自分が急におかしくなる。ろくでなしはろくでなしとして会うしかできまい。


タクシーを下りると古い門の前でやれやれと思った。でかい家は実家でたくさんなんだが。

古びた表札を見上げたアラシの、足が止まった。磨かれた分厚い板にはどう見ても　『弦巻つるまき』　とある。のばらが気になって眼がどうかしたのか。いや、確かに。入っていくすみれにあわてて呼び止める。

「あんたの名字は六原じゃなかったのか」
すみれは表札を見て苦笑した。
「両親が離婚したとき母の姓になったんです。姓だけで、姉も私もずっと祖父母と暮らしてるんですけど」

姉。
妹。
押し寄せるいくつかの記憶。声が震えそうだ。

「あんた」
「え」
「洋書とか、好きか」
「どうしてわかるんですか？　こないだ姉に、原書で素敵なのをもらったんです」
もしかしてそれは。

導き出される事実を否定しようとしても、予感は強まるだけだ。アラシの動揺も知らず、すみれは玄関へ飛び込んでいく。

「ただいまぁ、連れてきたわ」

後に続いたアラシはすみれの前の女性を見て動けなくなった。
「まさか」と「やっぱり」が矛と盾みたいに噛み合わさる。

嘘だろ。


のばらが静かにアラシをみつめていた。強い視線。針金でも通したように延びた背筋。ウールのフレアスカートにチョコレート色のセーターが、天然だと言っていた赤茶の髪によく似合っているが、今はそれどころじゃない。何か言おうと必死になるアラシに向かって。

「初めまして」

石を投げられたってここまで驚かなかったろう。
ほんとに何を言ってるんだ。

「すみれの姉の、のばらです。竹園さんですね」

開きかけた口がまた閉じる。のばらの眼が突きつけてくること。
あのとき、のばらはなんて言った？

『次に会うときは、他人よ』
そう。確かに。
『どこで誰と一緒でも、見知らぬ同士として』

衝撃がアラシを襲った。
すべてを知っていて、わかっていて、選択したのか。


すみれが不審げな顔をする。のばらは懇願を込めた沈黙で迫る。

すみれの一途さ。
のばらの潔さ。

挟まれたアラシは絶体絶命、逃げ場を失った。いずれにしろもう逃げられはしない。アラシは一瞬まぶたを閉じた。

「たけぞのさん？」
心配そうなすみれの声。
『理想をみつけたんでしょ』
重なるのばらの声。


俺は、バカだ。ほんとうにろくでなしだ。
選ばなきゃならないとわかっていながら選ぶことをせずに、自分のツケをのばらに払わせてしまった。

その、のばらが望んでいるのだから。


眼を開けたアラシはすみれに微笑むと、しっかりのばらを見返した。
できることはひとつ。

「初めまして、竹園です」


のばらへ。
たぶん初めて愛した女へ。

それがアラシの訣別の言葉になった。