いい加減にしろ。


すみれとの待ち合わせ場所に向かいながら、アラシはそれでも迷っていた。後ろから圧お　す北風が冷たいからだろう、下を向いて肩を丸める人ばかり目に付く。自分の気持ちにそっくりだ。

右か左か、ただそれだけなのに決められない情けなさ。女たらしも形無しだな。苦笑いも口元で消える。のばらの顔が頭から離れない。もしかしたら知っているんだろうか。


『殺していい？』

強気で勝ち気な言葉とは裏腹の、頼りない子どもの眼をしていた。強くたくましい大輪の花。実物もイメージと違わないのに心のずっと奥に幼さ可愛らしさを隠している。

すみれと反対だ。
シーソーみたいにもうひとりへと意識が移る。


出会いからして身体が丈夫そうではなかったすみれだが、幾度か会ううちにアラシは感じた。弱い肉体を補うために彼女に備わっている意志と忍耐力。それもまた強さだ。

のばらの強さとすみれの弱さ。のばらの弱さとすみれの強さ。挟まれた自分は両側からひっぱられて悲鳴をあげている。自業自得だ。今までどうでもいい奴とばかりつきあっていたとつくづく思い知らされる。

来る者拒まず？　ふたりにおろおろしている。
去る者追わず？　どちらと別れるかも決められない。


誰と告げず状況だけイナリに漏らしたら「両手に花か、羨ましい」と笑われた。「おまえらしくないな」とも。

「留まらないんじゃなかったのか」

そうだ。今までそういう主義だったのに今回は違う。何がと聞かれれば気持ちだ。どっちも大事でどっちを傷つけることも恐れている。眠る前にのばらを思い、目覚めてすみれを思う。節操がないにもほどがある。


数日前、のばらの言葉にドキリとした。

『運命の女よ』

手放せないと思った。
手放すまいと思った。

だから決めた。もう会わない、次の約束はない。
そうすみれに告げるつもりなのに、約束まで一時間もあるのに、待ち合わせ場所まで来てしまっている。まだ迷っている自分を嗤わら　う。


「兄ちゃん、ご機嫌だな。見ていかんか」

足を止めたのはよくあるアクセサリーの露天のひとつ。畳一畳ほどのシートを敷いた上にいかにも手作りっぽいペンダントやネックレス、イヤリングにピアスなどが並んでいる。立ち止まったアラシは興味なさげに眺めおろしていたが、ふと気になるものを見つけてしゃがみ込んだ。

バラを象かたど　ったピンブローチは手に取ると重みがあった。銀か紛い物か。花の周りに這わせてあるツルにちゃんとトゲがあるところがいい。のばらにきっと似合うと思った。

これまで女には貢がれても貢いだことはない。貢ぎたがるのはいつも女の方だがのばらは違う。アラシに何も贈ろうとしないし彼女が何かを欲しがることもなかった。でもこれは。

「いくらだ」
「五千円ってとこだが三千円にしとくよ」
「持ち金がない。半分にしとけ」
「ちぇっ、しけてんな」

裸の千円札二枚と五百円玉を渡し品物を受け取る。
光にかざすと、バラは鈍く光った。

「たけぞのさん」

振り向いたのは呼ばれたからで相手が誰か考えていなかった。すみれの姿に驚く。あわててブローチをしまい込んだ尻ポケットから、ベルト通しにチェーンでくくりつけている懐中時計を取り出して確かめた。

「待ち合わせは二時じゃなかったか」
「二時です」
「まだ一時前だろう」
自分のことを棚に上げて聞いたアラシは、それから気づいた。


いつものすみれは流行の先端とは言わないまでもワンピースにしろスカートにしろ隙なくきっちり整った姿だ。それが今日に限って長袖のＴシャツにくるぶしまでのジャンパースカート。コートもジャケットすら着ていない。この寒空に身体の弱いすみれが。

「どうした。何かあったのか」

アラシ自身はいたって丈夫な上、仕事上必要でない限り格好を気にすることなどない。今日もジーンズに太い縦縞の半天をひっかけただけだ。ないよりマシだろうと半天を背にかけてやる。化粧っ気もないのにすみれの頬は真っ赤で息まで切らしている。

「ほんとにどうしたんだ」
「あわてて出てきたから」
「一時間以上もあるのにか」
「祖父と……口論になって勢いで」

眼を伏せて口ごもる様子に勘が働く。

「もしかして俺のことか」
「違います」

否定は早すぎた。

「うちに籠もってばかりいた私が頻繁に出かけるようになったから、心配されて」
「つまり俺が原因だろう」
「望んでいるのは私です」

アラシの言葉を遮るようにキッとすみれが目線をあげる。

「悪いことをしてるわけじゃないから」

きっぱりとした言い方は逆にアラシをひるませた。彼女とはちがって自分には負い目がある。やっぱり今日こそ。


「もう会うのはやめるか」

瞬間、すみれの表情に走ったのは怯えだろうか。
見ないふりでアラシは続ける。

「わかってるだろう。俺はただのろくでなしだ。あんたが期待してるような男じゃないし、他にも」
「関係ないわ」

スカートに半天をまとった美少女は目立つ。らしくない声を張り上げるので通行人が振り返る。だがすみれはお構いなしだ。

「関係ないの、誰が何を言おうと今まで誰とつきあっていようと、あなたがいいんです」

拳を握りしめた手首は細くて簡単に折れそうだ。なのにまなざしはちょっとやそっとじゃ折れそうにない。矢のようにアラシを貫いてくる。


「あなたが好きなの。あなたのそばにいたい。駄目ですか」

いつもこうだ。まっすぐ真正面から挑んできて、百戦錬磨のろくでなしから言葉を奪い取る。きらきら輝くすみれの瞳。まぶしいのに、眼をそらせない。

「私のそばに居てください」


僕のそばに居て。
マドンナ。


届かなかった祈りがデジャヴとなってアラシを襲う。
胸の痛みが全てをなぎ払う。

俺の、マドンナ。


立ち止まる人、遠巻きにする人、冷やかす人。
何も聞こえず気づかない。
刹那、アラシはすみれしか見ていなかった。