訪れた「たけぞの」で、アラシはいつもと変わらなかった。

帳場の机にかがみ込んでいた彼は扉の開いた音に顔を上げ、のばらとわかると目尻にくしゃりとしわを寄せた。

「よう」

誰にでも愛想はいい男だ。わかっている事実が今は痛い。特別に思っても特別に思われるとは限らない。

ふっとのばらの脳裏を、今までつきあった男たちの顔がよぎった。彼らも自分を物足りなく思ったのだろうか。不安を抱えていたんだろうか。

当然だと受け止めていた想い。
傲慢ごうまん　だった自分への、これは罰？

「どうかしたのか」

帳場に居たはずのアラシが、いつのまにか眼の前に立ってのぞきこんでくる。

「目が真っ赤だ。またバイトか？」
「眠れなかっただけ」
「腹は？」

なんだか子どもに聞いてるみたいで思わず苦笑する。

「大丈夫」
「鯛焼きあるぞ」
「また鯛焼き？」
やっぱり子どもを扱うように手を引いたアラシは、帳場の上がり口にのばらを腰掛けさせた。

机を見遣ると貸本用の名簿と書きかけの原稿用紙に鉛筆が数本。湯呑みはどこかの寿司屋でもらってきたのか、魚偏へん　の漢字がずらずら並んで洒落っ気のかけらもない。

その横に小皿に乗せた食べかけの鯛焼きがあった。これをくれるつもりかしらと思ったら、帳場の下からもうひとつ、紙に包まれた鯛焼きを取り出した。

「来ると思ったのさ。いい勘してるな」

のばらのために買ったという鯛焼きはまだ温かかった。口の中に広がる粒あんの甘味が心にじわりと染みいる。飲みかけのお茶を差し出してくるアラシの手には鯛焼きが残り三分の一だ。

「うまいだろ」

駄目だわ、駄目。彼と別れるなんてできない。できるわけがない。細身のナイフで冷たく切り裂かれるようなこの痛みに、耐えるなんて無理。

喉につまりかけた鯛焼きをぬるいお茶でなんとか飲み込み、のばらはアラシの横顔を注視した。残りを口いっぱいに頬ばる子どもみたいな顔。

「ねえ、覚えてる？」
「なにを」
「よそ見したら勘弁しないって」

のばらから受け取った湯呑みで鯛焼きを飲み干したアラシが、真顔でこっちを見る。静かな眼だ。何も知らないようで、全て知っているようで。

「忘れちゃいない」
「本気よ」
「だろうな」
「もしそんなことがあったら。　殺していい？」

大きく眼を見張ったあと彼の顔が崩れた。ぴんと張っていた眉も口元もゆるんで、目尻にできるのばらの大好きなしわ。

「おまえになら本望だな、きっと」

どうしてと思った。
どうしてそんな風に笑えるの。
決まってる、ろくでなしだからよ。ろくでなしの女たらしだから。

手に持ったままだった食べかけの鯛焼きを机におくと、帳場にあぐらをかいているアラシに、のばらはしがみついた。

「なんだよ、どうした」
「いいの。くっつきたいだけ」
「ガキんちょみたいだな」

「あたしはガキんちょじゃないわ」
「じゃあなんだ」
「あなたの女」
下から見上げる顎の形はえらが張って先だけ丸い。青く覆う夕方の影が男の色気を感じさせる。

「理想や夢じゃない、運命の女よ」

触れてくる指先は荒れているけれど、ざらついた感触が。
好き。

「違う？」
「違わないさ」

アラシの腕が腰に回ってぎゅっと身体を抱き寄せる。肌を重ねたいと思わないわけじゃないが、今はしんとした静けさに浸っていたい。

「運命、か」
声で彼が遠くを見ているのがわかる。
理想の女を？　それとも？

いいえ。あなたは私のもの。
たとえすみれが、最愛の妹が、泣いたとしても。


客が来ない午後。
ひととき「たけぞの」は、ふたりだけの世界だった。