どこをどう歩いたのか覚えていない。
日がとっぷり暮れたあと、のばらはようやく家に帰りついた。

玄関で靴を脱ぎながらも気持ちは重い。すみれにどんな顔で会えばいいんだろう、何をどう聞けば。スリッパをひっかけた足取りがいつものようにパタパタでなく、どこか引きずった音になる。

ダイニングへ入るとのばらの食器だけが残されていた。遅くなるときはいつも連絡を入れるのに、食事のことなどすっかり忘れていた。キヨに悪いことをしてしまった。

反省しながら自分でおみおつけを温め、ご飯をよそった。干物に煮物、和え物に蒸しもの。贅沢はしないが、手をかけられた食事はとても豊かだ。ありがたく手を合わせる。汁物の椀は木肌の感触がやわらかくて温かい。冷えた体をほっとさせる。


「のばら？　帰ったの？」

すみれの声に噎む　せそうになった。熱い汁に喉を焼かれる。なんとか飲み込む間にすみれはのばらの前、自分の席に座った。

「遅かったのね」

毎日見ていたはずの妹の顔を、改めてのばらは注視した。上気した頬。生き生きした瞳。なんてきれいなんだろう。喜びとこれまでなかった痛み、どちらも針となってのばらを刺す。

「あなたもこのごろ、よく出かけるそうじゃない」
「よくって言っても週に一、二度よ」
「誰と？」

すみれが困ったように黙った。声を荒げ問いつめそうになる自分をのばらは懸命に押さえ、穏やかに続ける。

「おばあさまが心配してるわ。今までろくに出歩かなかったんだもの、驚いてるのよ」
「……そうよね」
「すみれ？」

うつむいていたすみれがまっすぐのばらを見た。

「男の人と会ってるの」
「どういう人？」
「好きなの」

率直な告白にのばらが息をのむ。
堰を切ったようにすみれがしゃべり出す。

「ずっと、のばらが羨ましかったわ。誰かを好きになるのも嫌いになるのも、思うがままにできるのばらが羨ましかった。私には決してできないことだと思っていたから」

のばらは眼を細める。
すみれにしかわからないつらさに何が言えよう。

「人を好きになるってこんなに素晴らしいのね。初めて知ったわ」
「どんな人？」
「わからない。会って間がないから。でもね、どんな人でもいいの」

投げ遣りにも思える言い方に驚くのばら。
すみれはかまわず続ける。

「どんな人でもかまわないの。彼でありさえすれば。たとえば非道い人でも犯罪人だってかまわないと思ってる」
「すみれ？」

どうしたっていうんだろう。日頃の妹にはない激しさに戸惑うばかりだ。

「でもやっぱりのばらが羨ましいわ」

どきりとする。

「どうやったら彼のそばに居られるのか、どうしたら好きになってもらえるのか、ちっともわからないんだもの。のばらならきっとわかるだろうし、できるんでしょうね」

熱い。

虫眼鏡で紙の端を焦がすようなすみれの強い視線に、とうとうのばらは耐えきれなくなった。食欲はとっくに失せている。立ち上がると今度はすみれがあわてた。

「のばら？　食事中にごめんなさい、怒ったの？」
「帰り際にちょっとつまんできたからお腹いっぱいなのよ。悪いけど疲れたから、もう休むわ。おやすみなさい」
「……おやすみなさい」

のばらがこんな風にすみれを置き去りにすることは珍しい。すみれの狼狽と気持ちの高ぶりをひしひしと感じながらも、のばらはその場をあとにした。


どうするべきなの。どうしたらいいの。アラシへの気持ちは今までと違う。失いたくない。彼を失うなんて考えられない。

たとえすみれと争っても？
生まれてからずっと慈しみ愛しんできた妹を、自分が悲しませるの？
そんなことできる？

部屋に戻っても眠れるはずはなく、ぐるぐる歩きながら考え続ける。小さな箱に投げ込まれたスーパーボールだ。あちこちに跳ね返りぶつかっても、どこへも行けない。答えはみつからない。

アラシに会いたい。でも同じくらい会うのが怖い。
アラシの中で自分は、すみれは、どういう存在なんだろう。

女にだらしがないのは最初からわかっていたことだ。なのにどこかで信じていたらしい。うぬぼれていたのかもしれない。自分にとっての彼と同じように、自分もまたこれまで彼がつきあった女とは違うと。ひとりよがりの思いこみだったんだろうか。

怒ればいいのよ。彼に確かめなくちゃ。
わかっているのに怖い。自分がこんなに臆病だなんて知らなかった。


窓の向こう、白々と明るくなる空。
かつてない心細さがのばらを捕らえていた。