師走に入った。
街路の銀杏いちょう　の葉を落とした裸枝が晴れた空にくっきり浮かぶ。

冬らしい光景というなら早くもクリスマスを装った街の方かもしれないが、寒々しい銀杏や遠青とおあお　の空が、のばらは好きだ。作られたものよりそのままの繕つくろ　わない姿を晒さら　しているものに惹かれる。

だからアラシが好きなのかしら。

ジングルベルが流れる店先をヒールで闊歩かっぽ　するのばらに笑みが浮かんだ。何につけてもアラシを引っ張り出す自分がおかしい。でも楽しい。恋をしてこんな風に豊かな気持ちになったのは初めてだと思う。

季節も気候も関係ない、心で花がほころぶ。アラシという太陽に向かって野ばらが次々つぼみを開いていく。木枯らしもなんのそのだ。


のばらの機嫌がいいのは他にも理由があった。すみれの調子がとてもいい。鬱々としたところがなくなり明るく楽しそうだ。外出も増えて色々なことに積極的だという。

気は心というように気持ちは身体に出る。季節の変わり目はたいてい一度や二度寝込むのに今年はそれがなかった。有り難いことだ。


弾む気持ちで家に戻ったのばらに、昔からうちにいるお手伝いのキヨがこれもすみれのことを嬉しげに語る。
「朝も昼もちゃんときれいに召し上がって。張り合いも出るってものです」
「元々キヨさんの料理は美味しいんだもの」

世辞でなく事実だ。和食だけでなく、のばらやすみれの喜ぶ洋食の類もキヨは巧みに作る。だが食の細いすみれはこれまでどうしても残す方が多かった。キヨの喜びには実感がこもっている。
「フレンチトーストを一枚まるまる平らげて下さったのは初めてじゃないでしょうか」

祖母もやってきたのでキヨはお茶の支度に消えた。
「今ね、すみれに編み物を教えてるのよ。今まで習いたいなんて言ったことないのに。飽きるかしらと思ったけど、熱心にやってるわ」

そこで祖母の口調が変わる。
「週に一度は必ず出かけるのよ。何曜日って決まってるわけじゃないんだけど、戻ってくると今度はいついつ、って嬉しそうに」

声を潜めて真顔になった祖母は心配そうにのばらに囁いた。
「ねえ、あの子、恋をしてるんじゃないかしら」

虚を突かれた。自分のことを言われたのかと思い、今はすみれの話だったと首を振り、一歩遅れてあわてふためく。

「恋？　すみれが？　誰に」
勢い込んだのばらに祖母はかえって怯んだようだ。困ったように眉を寄せる。

「本人がそう言ったわけじゃないのよ？　私が勘ぐってるだけ。あまりにも様子が違うから」
「誰かと会ってるなら、お友達とかじゃないの？」
「あの子にそんな親しいお友達はいなかったでしょう？」
今度はのばらが眉をしかめた。祖母の言うとおりだ。

「それになんていうの、表情が一気に大人びて女らしくなったわ。あれは恋をしてる眼よ。そう思わない？」
「そう、かしら」

のばらは自分にかまけて妹への注意が散漫になっていたのを悔いた。こんなに大事なことを見落とすなんて。

「別にほら、出かけるのはいつも真っ昼間だし、夕方にはちゃんと帰ってくるし。今のところは心配する理由はないんだけど。ずっと家に籠もっていた子が急にでしょ。つい、心配しちゃうのよ」
「当然よ。様子を見ながら聞いてみましょうか」
「そうしてくれると安心だわ。おじいさんが勘づかないうちにね」

ほっとした顔の祖母を見てのばらの後悔はさらに募る。同時に、恋というなら初恋に違いない妹の、思う相手はどんな人だろうと思案した。



その数日後だった。教授に卒論の途中経過を見てもらい、ついでに学術論文の下訳を頼まれて図書館に寄ったのばらだったが、気分が乗らなくて早めに切り上げた。

すみれには何も尋ねていない。祖母に言われて観察してみると確かに変化は明らかだった。眼の輝き、表情の豊かさ、口数の多さ。どれもこれも気持ちの高揚を物語っている。

だからといっていくら妹でも露骨に聞くのはためらわれた。本人がどれほど自覚しているのかわからないし、初恋ならさらにデリケートな話題だ。祖母と視線で問答しながらも、のばらは口に出すタイミングを逸していた。

確か今日も出かけるって言ってたのよね。

目的もないのに駅前に来てしまったのは、それが頭にあったからだが、ショッピングモールで偶然見つけ出せる確率はすこぶる低い。適当に歩きながらそちこちに眼をやってすみれを探していたのばらは、今まで知らなかった古書店を見つけて思わず飛び込んでしまった。

近頃、古書店は手当たり次第に総ざらえしている。捜し物をしているせいだ。アラシの『マドンナ』が佳作を取った雑誌、『遊星』。すでに十数年前のことで、その雑誌も数年前に廃刊になっており、かなりのレア物になる。

あちこち、しらみつぶしに当たっているけれど、目当ての号はおろかその雑誌すらお目にかかれない有様だ。

「『遊星』かい。うーんないなあ。ここしばらく目にしないよ」
「そうですか」
「もともと発行部数が少ないし、持ってる人はあまり手放さない。コアなファンが多くてね」
「十数年前の号なんです。『マドンナ』って短編が載ってるんですけど」

レジそばの、さっきまで店主と話し込んでいた男がちらりとこっちを見る。店主が困ったように言った。

「そりゃ難しいな。もしあったら取っておくから。またおいで」
「お願いします」
店主と、その男にも会釈してからのばらは店を出た。

ため息になる。どこへ行ってもこの調子で見つかりそうにない。アラシ本人は持っていると思うのに、何度聞いてもはぐらかすばかりで見せてくれない。

のばらとしては彼の小説を読みたいのはもちろんだが、彼が理想と言い切るマドンナをどう描いているのか知りたかった。知ってどうなるものでもないのに、女って浅はかよね。こんな気持ちだから見つからないんだろうか。知らない方が。


迷う気持ちそのままにさまよった視線が斜め前で止まった。物思いの原因がやってくる。背が高い彼は雑踏の中でも頭一つ抜きんでて目立つ。

のばらの口元が緩んだ。彼を見るだけで心が浮き立つ。声をかけようとして気づいた。彼が斜め下へ向ける視線の甘さ。嫌な予感がした。さっきとは逆に口元が引き締まる。まさか。


のばらは恋にルールがある。つきあうと決めたら二股はしないし、相手にも許さない。契約書を交わすわけでも判を押させるわけでもないが、守れない男は捨ててきた。でも。

もしアラシがそうだったら？
別れるの？

突然降ってきた選択肢に茫然とする。さらに思いもかけない追い打ちをくらった。彼の横に連れ立って嬉しそうに笑っている。

すみれ？


地面が割れて真っ逆さまに落ちるような気がした。眼にした光景と思考が繋がらない。信じられないという気持ちがすべてを圧倒する。

夕暮れのショッピングモールは帰宅ラッシュが始まっていた。人並みが右に左に交差する向こう側、のばらとはかなりの距離を置いてアラシとすみれが行き過ぎていく。どちらものばらに気づかない。

周囲に比べてゆっくりの足取りはすみれへの配慮だろうか。どうでもいいことが頭を過ぎる。のばらの感情はぐちゃぐちゃだ。


ふたりが雑踏に見えなくなってからも、のばらはその場から動くことができなかった。頭上で銀杏がひゅうと木枯らしに鳴った。