暦はすぐに十月へ移った。
暑さが退いて厳しい日差しも切り替わる。

すみれがひとりで出かけるのは久しぶりだった。心配性の祖母は付いて来かねない様子だ。子どもじゃあるまいしいくらなんでもと説き伏せたが、でもねえでもねえと家を出るまですみれの後ろをついて回った。

「何かあったらねえ」
「体調がいいもの、大丈夫」
「でもねえ」

「いざとなったら救急車呼んでもらうし」
「でもねえ」
「人がいないところには行かないから」

久しぶりに乗ったバスの狭い座席で左右に小刻みに揺られながら、祖母の顔が思い出されてすみれは苦笑した。母の分まで愛情を注いでくれるのは姉と同じ、ありがたいと思う一方で、自分が健康で元気だったらうるさく感じるだろうかなどとも思う。仮定に過ぎないわ。窓の下を流れる景色がやるせなかった。


駅前のショッピングモールは平日でもそこそこの人がいるが、ぶつかったり追い越されたりというほどではないので気が楽だ。すみれはゆっくりウィンドウショッピングを楽しんだ。

すっかり秋物、冬物もちらほらするファッションにアクセサリー、雑貨や文具や小物類。何を買おうという目当てはないのだけれど、目的はあった。のばらへのバースデープレゼントだ。まだ先だけれど毎年、早めに探し始める。

自分がもらったプレゼントと同じくらいの驚きを喜びを姉にも贈りたいから。とはいえ、あの本を思うと今年のプレゼント選びも難航しそうだ。何がいいだろうと立ち止まって思案に暮れる。

秋物を身につけたマネキンの前で、人差し指を頬にあてて考え込む、すみれ自身がマネキンのようだ。立っているだけで一幅の絵。はまりすぎて大方の通行人は遠巻きに行き過ぎるだけだったが、中には場を読まない人間もいる。

「びっじーん」
「ねえねえ君、お茶しない？」

たっぷり一拍、二拍は置いてからようやく、それが自分に向けてかけられた言葉だとすみれは悟った。眼を丸くしながらあとじさりするが、後ろはマネキンが飾るウィンドウだ。

「私、買い物が」
「買い物。いいね、一緒にしようよ」
「流行の服、選んであげるって」

胸で握りしめていた両手、片方の手首をつかまれひっぱられる。あらがうとさらに強く引っぱられた。驚きと焦りでひゅっと喉が鳴る。

とたんに胸を差し込みが襲った。だめ、こんな時に。心臓を鷲掴みにされる痛みでその場にうずくまる。表情が一変したのだろう、相手がぎょっとして手を離した。

「ちょ、なに」
「え、え、おいって」
「まずいんじゃ」
息苦しさに青ざめたすみれを見て、取り囲んでいた輪が一歩ゆるんだ。そこに別の声がとんだ。

「おまえら、何やってる」
「なっ、なんだよジジイ」
「ジジイだ？　僕はまだ四十代で」
そこにもうひとつ、かぶせるような大きな声が低く太く響きわたった。

「おっまわりさーん、こっちこっち！」
「うわっ」
「逃げろ」

ダダダダッと足音がてんでに遠ざかったが、膝を抱えるようにして痛みに耐えるすみれには自分の足下しかみえない。幾何学模様を描いているタイルはパステルカラーだが、日差しに色褪せて白っぽく所々が欠けている。そんなどうでもいいことが痛みから逃げる助けになる。

「君、大丈夫？　真っ青だよ」
「真っ青なのはあんただってイナリさん。腕に覚えもないくせに」
「義を見てせざるは勇なきなりだぞタケ。女の子が苦しんでるんだから」
「苦しんでってオーバーな……じゃない？」

痛みをこらえるためにらんでいたタイルを踏んで、サンダルをはいた大きな足が現れた。大きい。こんな大きな足を間近にみたのは初めてだ。男の足だと思った。父の足はどんなだったろう、もう思い出せない。

相手がしゃがみ込んできたらしく、膝頭に穴のあいたジーンズが突き出される。しゃがんだのにまだ声はすみれより高いところから聞こえる。

「あんた、おい。救急車呼ぶか？」
「だい、じょう、ぶ、です」
嘘ではない、徐々に痛みは鎮まりつつある。なんとか言葉を押しだしながら相手の顔を見上げたすみれ。


世界はそこで変わってしまった。


一目惚れなんて物語だけの話だと思っていた。名前も知らない初めてあう人に、心を持って行かれるなんて信じられない。でも現実だ。

延ばし放題に見える髪はうなじで適当にくくられ、太い眉と鋭い眼が通った鼻筋に沿っている。それらを受け止める唇は大きくて薄い。笑顔より不機嫌に見えやすい顔立ちは親しさより怖さが勝つ。

でも惹かれる。
眼が離せない。離したくない。


自分のあり得ない状況でいっぱいいっぱいだったすみれは、相手もまた不可解な、不審な様子だったのには気づいてなかった。カキンと凍ったような場を割ったのは三人目。最初にすみれを助けに入ってくれた声だ。

「タケ、女の子をにらみつけちゃ駄目だよ」
「にらみつけられてるのは俺だろ、イナリさん」
「なるほど。みつめあってるんだな」
「なんでそうなる。わけがわからん」

「とりあえず、原稿の締切よろしく」
「ちょ、イナリさん、コーヒー代は」
「貸してくれ」
「ひでぇ」


路上にふたりで残されてしまった。やっぱり眼が離せないすみれに、彼は困惑して見えた。でも怒ってはいないようだ。

「……茶店に戻らなきゃならないんだ。あんたも来るか」
「すみれ、六原すみれです」
「竹園だ」

名字だけ名乗ってさっさと喫茶店に向かう男の、後を追いかけて小走りになる。もう苦しくない。全然苦しくない。自分は一体どうしたんだろう。


いぶかしさはもちろんあったけれど、すみれは今、紛れもなく幸せを感じていた。