「美人を抱きあげる滅多にない機会だってのに、気を失うわ眼の下はクマだわ腹は鳴るわ、色気もヘったくれもない」

気づいたら寝かされていたのは「たけぞの」の三階、アラシの部屋のアラシのベッドだった。不覚だ。頭はまだ醒めきらず彼の文句に反論もできず、のばらは赤くなった。それを見てまた彼が言う。

「さっきの真っ青な顔に比べればよっぽどマシだな」

近くにあった腰掛けを引っ張ってきたアラシは、その上に持っていた盆を置いた。湯呑みと小皿に。
「鯛焼き？」
「近くで売ってる。うまいぞ」

焼きたての匂いにつられかけたが、危うく踏みとどまったのばらは枕元にあった自分のバッグをつかんだ。分割の残金を入れた封筒をアラシに押しつける。言われ放題への意地もあった。


「今日で終わりよ、ホッとしたでしょ」
「それで寝不足か」
「どうしても明日までに欲しかったんだもの」
「ならそう言えばよかったじゃないか」

中身を確かめもせず懐へ押し込んだアラシは、不満げな顔で目当ての本を取り出すとのばらの膝に置いた。いつのまに取ってきたのか、考えるよりも手にとって確かめる方が先立った。

うん、やっぱりいい。すみれも絶対喜んでくれる。
のばらの口元がほころぶ。

「やっぱりいいな」

心のこだまみたいに彼が言うので驚く。じっとこっちを見る眼に浮かんでいる欲求。まさか。

「だめよだめ、ちゃんと支払いすませたんだから、これはもう私の本よ」

本を渡すまいと抱きしめて叫ぶのばらに、またアラシが吹き出す。

「違うって。本じゃない、あんたさ」
「私？」
「欲しいと決めたらまっしぐらに、でも真っ当に自分の力で手に入れようとする。いるようでいない。いい女だよあんた」

容姿はともかく、性格や内面を誉めてもらうことは滅多にない。まっすぐな言葉を浴びてのばらの頬はさっきより濃く染まった。手にある本で隠そうとしたが、ベッドの真横に座ったアラシにその本を取り上げられる。

「ちょっと」
「キスするぞ」
「は？　っ、んんっ」
ぐいと腰を抱き寄せられ唇を奪われる。びっくり仰天だ。

なにこれどうして冗談でしょ。ちょっと私、ぼーっとしてないで今こそひっぱたかなきゃ。とりあえず離れなさいって。

頭の中は混乱状態、囲われた胸の広さに戸惑いながら、押し返そうと当てた手のひらから伝わってくる彼の鼓動。

早い。
すごく早い。まるで。
まるで？

なんとか押し返してキスが途切れた。唇の代わりに繋がった視線。いつもと変わらなく見える彼の眼が、手のひらを打つ鼓動でゆらゆら揺らいでいる気がする。

「動悸が早いわ」
「いい女を口説いてんだ。心臓もスキップするさ」
「口説いてるの？　キスしたかっただけでしょ」
「これだよ。男の純情がわかってない」

息がかかる距離のせいか、アラシの言葉がやけに甘い。だからってごまかされるものか。

「よそ見も二股も勘弁しないんだけど」
「そんなに惚れてくれるのか。感激だな」

また距離が縮まる。待って待って。

「あなた、私が好きなの？」

こんな無粋な問いを自分がしてるなんて信じられない。アラシがのばらの瞳をのぞきこんでくる。

「拒まず追わずの主義なんだが、あんたはなんでか追いかけちまうんだ。高嶺の花、血統書付きのペルシャだってわかってんのにな」
「ねえ、好きなの？」
「あんたは？」

質問を質問で返すのはずるいと思うが、自分のずるさもわかっていたから、ただみつめる。

「あんたが欲しいってのじゃ答えにならないか」

ならないと言いたかった。のばらはいつだって恋に白黒つけてきたのだ。でも、今までの恋はずっと自分が優位に立ってきたからだと悟る。恋うにしろ恋われるにしろ、裁きは自分でつけてきた。そうしながら心の片隅で、我を忘れるような思いに焦がれてきた。

なら、いいじゃない。
だって自分も、彼が、欲しい。

「ほかの女に目移りしたら殺すわよ」
「あんたならやるな。心臓はここだ」

胸に当てたままののばらの手にアラシの手が重ねられる。鼓動が速まったのはのばらの方だった。早すぎて、痛いくらいに。

「なあ、いいか」

ねだるような甘い問いかけにのばらはとうとう降参した。そっと胸に頬を寄せる。跳ね回っている鼓動が嬉しい。

「あんたの毛並みをずっと、この手で確かめたいと思ってた」


手で頬をすくわれて眼を閉じる。
もう言葉はいらなかった。