６月に入ってから、彩芽の落ち込みは尋常ではなかった。
４年越しの夢がつぶれたら、誰だってそうだと思うものの、さすがに勤め先でも目を引いていたらしい。


柚池　彩芽　ゆずいけ　あやめ　は派遣社員だ。勤め先は中堅商社の経理。まだ新米もいいところ。
東京へ出てきたのが４月。あらゆることに慣れなくて緊張しきっていた。おまけに心は夢の繕いに飛んでいた。とはいえ、勝手に出てきたから親には頼れないし、預金はあるものの手をつけないつもりだったので、仕事はなくては困るし。
派遣に登録してすぐ仕事に就けてホッとした。多少気はそぞろながらも早く慣れようと必死だった。この会社は派遣社員の受け入れに慣れていて、そう言う意味でも助かっていた。

２ヶ月経ちやっと仕事にも人にもなれ、派遣先でも気軽に呼んでもらえるようになった頃。わずかな希望に縋っていた彩芽の夢は綺麗さっぱり消えた。
プライベートを仕事では出すべきじゃない。わかっていても、這い上がれそうにない絶望感と闘う日々。よっぽど目に付いていたのだろうか。いつも可愛がってくれる正社員の那智　理恵子　なち　りえこ　が声をかけてきたのだ。
「彩芽ちゃん。遊びに行かない？」
「遊びに？」

この鬱な心を何とかしたいのは山々だったが気が重い。そんな彩芽に理恵子は声を潜めて聞いた。
「ホストクラブって興味ある？」
「ホ…ストクラブ…ですか？」

さすが東京。彩芽はまずそう思った。
ホストクラブなんて田舎ではお目にかかれない。あったって、普通のＯＬでは敷居が高すぎて行こうなんて夢にも思わない。一体どんな感じなんだろう。
久しぶりに湧いた興味を理恵子はしっかり読みとった。

「ＯＫ、行くわね。金曜だし今夜がいいな。軽く食事して、映画でも見て。それからね。初めてだとたいしてお金もかからないし。奢るわよ。ちょっと飲みに行くと思えばいいから。じゃ終業後に」

テキパキと決めて仕事に戻った彼女に彩芽は再び感心した。
理恵子は女性ながら切れる。彩芽が派遣された課では一番だ。頭が良くて美人できさくで。きっぷがよくて。「江戸っ子の女性」というイメージをそのまま人物化したような。着物を着せたらきっと「小股の切れ上がったいい女」になるだろう。
湧き上がるコンプレックスを、仕事でくい止めることにする。せっかくの好意だ。職場ぐらいは楽しいほうがいい。せめてもの救いと思いたい。


終業後。どうしてすぐにそこへ向かわないのかと思った彩芽だが、理恵子によればホストクラブというのは概ね営業時間がかなり遅いとのことだった。
イタリア料理を食べたあと映画を見た。コメディで久しぶりに笑った。それからようやく目的地へ向かったふたり。

「先輩はよく行くんですか？」
抑えようとしても興味は出る。これまで自分の周りにホストクラブの経験者はいなかったし。
「よくってほどじゃないんだけど。落ち込んだときなんかいいのよ。なにしろ美形がかしずいてちやほやしてくれるんだから」
「やっぱり美形？」
「基本はね」　理恵子が笑う。
「好みはあるから、いろいろとりそろえてますって感じかな。でも、今日行くところはいろんな意味でレベル高いって定評があるの。あたしもそう思うな。レベルって顔だけじゃないのよ」

わかるようなわからないような。でもなんだかワクワクする。
鬱な自分を押し隠した彩芽は、期待の風船を精一杯膨らませた。


歓楽街の一本裏にある館みたいな建物だった。ゴージャスでシックな門構え。安っぽさなんてどこにもない。一人じゃ絶対入れない高級な雰囲気だ。キッとドアを押した理恵子に気後れしながらついて入る。途端。
「いらっしゃいませ」

綺麗にスーツを着こなした男性が出迎えた。彩芽とさほど変わらない年頃に見える。
「理恵子さん。お久しぶり」
「ちょっと仕事が忙しくて。お詫びにお客を連れてきたわ。初めてよ」
「いらっしゃいませ」
彼は彩芽に向かって、実に見事なお辞儀をした。そう、お辞儀。まるで中世の騎士がお姫様にするみたいで見とれる。

「理恵子さんの連れにしては、ずいぶん可愛いね」
「ケイ。それじゃあたしは可愛くないってこと？」
「失礼」
軽口のたたき合いを双方楽しんでるのがわかる。
「会社の後輩なの。このところ落ち込んでるみたいだから、楽しませたいのよ。よろしくね」
「もちろん。ここでは誰でも、レディでプリンセスなんだから」
レディ？　プリンセス？
キングやナイトもいるのかと聞きそうになった彩芽だが。

確かにいたのだ。キングもナイトも。
そこは異次元だった。彩芽の予想を遙かに越えて。それを知るのはまだずっと先だったけど。


「アキラは元気？」
「理恵子さんが来ないから、すねてたよ」
「だと嬉しいけどな」
「どうぞ、こちらへ。お連れの名前は？」
答える前に理恵子が告げる。
「彩芽　あやめ　よ」
「この時期にぴったりの綺麗な名前だね」
ケイと呼ばれた彼は彩芽にむかって微笑んだ。字の違いを訂正する余裕なんてない。気分は妖精に魔法の杖を振られて変身するシンデレラさながら。

「彩芽さん、Man　Hallへようこそ。楽しんでいただけることをお約束しますよ」


かくして彩芽は踏み入れた。
ある意味彼女にとって魔法のお城になった場所。

ホストクラブ　Man　Hall　マンホール　へ。