深い眠りは深海に似ている。

碧やら深緑やらやがて黒やら。
濃い色が混ざり合って溶けて。その中で自分は浮遊する、そんなイメージ。決して悪いものじゃない。逆だ。安らぐ。
こういう眠りは滅多に訪れないのが悔しい。自分のことなのに何故コントロールできないんだろう。

凄く気持ちがいい。なんの不安もない。指が髪を思い出すようになでてくれる。こんなに落ち着くのは久しぶりだ。
そう、　ひさしぶり。

………？

頭で警鐘が鳴った。誰かが眼を覚ませと訴える。
こういうときは本能に従うべきなのは経験からわかってる。


彩芽あやめ　はいやいやながら意識を浮上させていった。
眠りの海から現うつつ　の空へ。



いきなり眼を開けた。まだ浮上しきれない意識。目に映るのはただの網膜の反射にすぎない。
白い天井。薄暗い室内。窓にかかるカーテンが、夏に近づく日射しを遮断している。朝なのか昼なのか。

ぼんやりした眼がふと間近にある腕をとらえた。５本の指がついている左腕はどうみても自分のではない。細いが筋肉質で、彩芽の頭の下でもしびれることはなさそうな。

腕枕になってる。誰の腕が？
意識が現実と折り合わずにあがく。

気づけば腰のあたりにも別の腕がある。力を抜いて彩芽の腹を包むように抱え込んでいる手。直じか　に。背中にも感じる人肌と体温。
つまり。
ベッドの上で。彩芽の頭は誰かの左腕に枕され、腹は誰かの右腕が抱えていて、背中に誰かがいる。

嫌な予感？　違う、実感。

ともかく現状を把握しようと、彩芽はおそるおそる体をねじってみた。
まず見えたのは銀のピアスだった。星座のように並んで光る。
耳たぶの持ち主はあっさりいえば男。見覚えはない。

ちょっとクセのあるサラッとした焦げ茶の髪が無造作に額にかかっている。通った鼻筋。長い眉。薄目の唇。たどりたくなる黒子がいくつか。
整った綺麗な顔。
非常事態にもかかわらず、彩芽はその眼が開くのを期待した。
人の顔は眼で決まると思っている。どんなに綺麗な顔立ちも、その眼次第だから。

見たい。


事態もわきまえない呑気な願いはかなえられた。いきなり開いて彩芽とかち合う視線。スパークする銀色。
眼が銀色だったわけではない。どうみても日本人の黒。にもかかわらず銀が弾けた気がしたのは錯覚か。期待どおりだった。思い浮かんだのは、月が照らす夜の海。銀の波。

魅入られていた彩芽に、現実は隕石となって降ってきた。
彼の形をして。


「起きたのか」

口元に笑みを漂わせた顔がすぐ視界を覆う。唇に感触。
へ？　　は？　　あ。
………キス？


「きゃぁああああああああああっっっ！！！！」


ようやく我に返った彩芽は、相手を思いっきり突き飛ばし百メートルも離れようとして、当然ながらベッドは幅も長さも百メートルあるわけがなく。
とびすさって床へ落ちかけた彩芽の腕を、苦もなく男はまたつかんで引っ張り抱き寄せた。つまり、逃げた腕の中に再び囲われたわけで。
…まぬけだ。

「っぶねえ。なにやってんの」

言葉ほどあわてていない。どちらかというと面白がっている声だった。落ちかけた感覚にまだびびっている彩芽は動けず。でも気づけば裸で抱かれてる。相手も当然裸。全身の触覚が目覚めてくる。
「やっ！　はっ、離してっっ！！」
恥ずかしいやら焦るやら逃げたいやら。パニック状態とはよく言ったものだ。ただ闇雲に暴れかけるが。相手はまるで焦らず、びくともせず。

「わーったから。また落ちるだろ。ちょっと落ちつけって」
「そ、そんなこと言ったって」
「忘れてるんだな。そんな気はしたんだけどさ」
「…は？　何を？」
「俺の顔、わかるか？」

男は彩芽をとりあえずシーツで包み込みながら問うた。見覚えがあればこんなにあわてたりしないのに。
「ゆうべのこと、どこまで覚えてるんだ？」
ゆうべ？
彩芽は混乱した頭を必死でフィードバックさせようとした。朧おぼろ　に浮かんでくる泡のような記憶。


そう、ゆうべ。
落ち込んでいた彩芽は職場の先輩に誘われて、初めて『ホストクラブ』なるところへ足を踏み入れたはずだったー。