こちらを向いたふたりの顔は恋人同士というより、悪戯をみつかった子どものようだ。謙介は小さい頃の丈を思い出した。

突然母と別れ自分と二人家族になった時も、やっとみつけた保育園の近くへ引っ越して環境が激変したときも、丈は泣くことはあったが素直で明るく元気に育ってくれた。

シングルファーザーなんて言葉はまだない時代だったが、日々をこなすだけで精一杯のめまぐるしさは自分にとって逆にありがたかったかもしれない。身体のきつさが心のむなしさをごまかしてくれたから。毎日ただ必死で。

それまでも自分を人より優れているなどと思ってなかった謙介だが、真面目にやっていれば幸せはつかめるというごく普通の夢はあった。離婚は平板でも穏やかだった人生に仕掛けられていた底のない落とし穴に思えたものだ。浮気したのは彼女で別れることは難しくなかったが、何故どうしてという疑問の答えにはならない。

『ごめんなさいごめんなさい、許して、ごめんなさい』

狂ったように繰り返す彼女は最後はほんとうに狂いかけて見えた。離婚までのわずかな間にげっそりやつれた様子に、許してやれととりなす者もいたが、もしばれなかったらどうしていたのだろうと思うと許せなかった。かたくなな自分の性格を恨めしくも思った。

別れたことに後悔はない。だが、それ以前に互いの絆を深める努力をするべきだったのだろう。目の前の息子と彼女のように。言葉を交わしてケンカもしてわかり合う、そんなことをもっと。今更か。謙介はゆっくりと話し出す。

「辛いことはしまいこんではいけない。そう叱られた」
「……父に、ですか」
尋ねる美羽にうなずく。怖じることなく人の眼をまっすぐみつめるところが、温にそっくりだと思う。

「家族の事件は辛いことでも、たとえばアルバムのように見せ合い語り合って共有しなきゃいけないそうだ」
丈がよくわからない顔をする。こっちは昨夜の自分にたぶんそっくりだ。

「そうすれば、辛いのは自分だけじゃないってことも、別の見方考え方感じ方があるってこともわかるし、わかりあえる。一人にとっては思い出したくないことも、一人にとっては大切な思い出になったりすると」
横で道江がふわりと笑むのを感じた。わかっているんだ。そう、彼女はずっとわかってくれたし、わかろうとしてくれた。

「忍は高校を卒業したあと、結婚まで家事手伝いをしていたのもあって、あまり世間を知らなかった。年のわりに幼いが素直なところに私は好感を持った。見合いして結婚まで半年ほど。会ったのは四、五度か。昔はよくある形だ。都会に出てくることを楽しみにしていたが、それはテレビで景色を見るような憧れで、実感は伴ってなかったんだろうな」
丈は美羽と並んで座り、初めて聞く生みの母の話に聞き入っている。

「おまえを妊って外出も難しくなると、よくシャボン玉が欲しいとせがまれたよ」
「シャボン玉？」
「その頃住んでいたのは小さなアパートの二階だった。窓からシャボン玉を飛ばすのが好きだったんだ。子どもみたいだと笑ったらどうせと言いながらまた吹いた。階下に住んでいた子ども達が喜んでいたっけ」
泣き顔じゃない忍をこんな風に思い出すのは離婚して以来だと思う。

「仕事から早めに戻れた日、アパートへ近づくときらきら光る泡がたくさん空へ飛んでいくんだ。ああまたやってるとおかしくなった。夕陽を詰めたようなあかね色したシャボン玉がいくつもいくつも。そろそろ買い足さなきゃ、なんて思ったものだ」
「……覚えてる」
美羽が丈を見上げる。握りあっていた手に力が入ったのだろう。

「四角い、あれは窓だったのか。青い空に飛んでいくシャボン玉を、黄色い布が額縁みたいに縁取ってるんだ」
謙介は驚いた。

「あの部屋を覚えてるのか。離婚してすぐ引っ越したのに」
「違うかもしれない」
「いや。窓の両脇に黄色いカーテンが下がってた。彼女が選んだ、彼女の好きな色だった」

「カーテン？」
「そういえばおまえが生まれてからも、よく窓からシャボン玉を吹いて見せていたよ」
「……黄色が、好きだったんだ」
繰り返す丈の顔。ここ何年も見たことのない幼さをみつけ、謙介は温の言葉をかみしめた。

『ひとりにとっては大切な思い出に』

自分が妻を許せないことと、丈が母を思うことは別だった。何一つ語らないことで彼女を罰し続けてきたのか。丈に思い出も与えずに。ひどい男だ。

「……白兎さんはこうも言ったな。許せない人でもおまえを生んでくれた人だ。確かにあった愛情や思いまで否定することはない、と」
丈も美羽もかみしめるように聞いている。謙介はため息を吐いた。

「忍が病魔に冒されておまえに会いたい、連れてきて欲しいと手紙をくれた時も、私は叶えてやれなかった。おまえに伝えることさえしなかった。忍はきっと恨んでいるだろう……おまえもか？」

驚いたように顔を上げた丈はすぐ首をふった。
「行けば良かったとは思ってる。でも。俺も幼かった。親父だけのせいじゃない。母さんが倒れてやっとわかったんだ。死ぬことや生きること、家族ってことが」

ほんとうに大人になったと謙介はしみじみ息子を見た。子どもは親を追い越していく。そうだな、これから彼女とふたりで新しい家族を作っていくんだ。ふりむいた謙介は微笑んでいる道江にも言った。

「すまなかった」
「何が？」
「白兎さんの言葉を借りれば、『前の奥さんにいつまでも拘ってると愛想尽かされますよ』だそうだ」

「まあ」
「お、お父さんったらなんてことを」
美羽があわてて怒り始めるのを道江は軽くいなす。

「いいのよ美羽さん。ほんとのことだから」
「え」
「母さん？」
「おいおいおい」
一番ぎょっとしたのは間違いなく謙介だ。三人を順繰りに見た道江がくすっと笑う。

「誤解はしませんけど。いい加減片付けて欲しいとは思ってました」
「片付けて？」
「昔のことと認めて、整理することです」

腑に落ちるとはこのことだ。すとんと道江の言葉が素直に飲み込めた。許せない自分も受け入れて認めよう。こうして自分を囲む人たちがいるのだから。

「……丈、美羽さん、悪かったね。白兎のお父さんには私がちゃんとお話しするから心配しなくていい。お式での写真も二人が望むなら」
「待ってくれ親父」
憑きものが落ちたように穏やかに言う謙介を丈が止めた。

「親父は、彼女を許せたわけじゃないんだろ。美羽は俺を気遣ってくれたけど無理する必要はないんだ」
「そうです。私の独り合点で」
「無理じゃない。許せなくてもおまえの母親だ。最後に会わせてやればよかったと今は思う。だがそれはできないんだからせめて」
「俺は」

「ねえ、あなたたち」
妙な具合に揉めるふたりに水入りしたのは道江だった。こちらを向く父と息子のよく似ていること。

「私に提案があるんだけど」

わけのわからない表情のふたりと、同じく首を傾げる美羽に、不思議と丈によく似た瞳をくるりと回した道江は、全てを見通した賢者のような笑みを浮かべたのだった。