疲れ果てて眠った丈だが仕事はいつもどおりだ。翌朝、始業前になんとか美羽をつかまえて話をしようと、エントランスで待ち構えていたのに。

「話を聞けって」
「聞く耳持ちません」

やってきた恋人は鎧兜よろいかぶと　か超合金アーマーで全身を固めたようにとりつく島もなく、ばっさり丈を斬り捨ててエレベーターに乗り込んで去った。居合わせた周囲は目をむいていたが構っちゃいられない。追いかけてと思ったらタイムリミットになってしまった。


丈が所属する部署は常にヒマなしだ。プライベートで何があろうと仕事に差し障ることはしないが、この三日は脳の半分を美羽と家族に占拠されてしまっていて、ミスがないのが不思議なほど。自分への気合いを余分に周りへもふりまくせいで、部下たちがびびりまくっている。

そんな中でもランチタイムを三分フライングして総務へ駆けつけたというのに、すでに美羽の姿はなかった。相手にまでフライングされては意味がない。あまり想像がつかないが美羽も不機嫌をふりまいているのだろうか。他の女子社員たちに困ったような申し訳ないような、それでいて興味津々の顔をされるので早々に逃げ出した。

案の定、社員食堂にも彼女はいない。外では探しようがないし、自分も今日は残業できないからさっさと仕事に戻らなければならない。社外にも定評のある社食だが、今日ばかりは味がまるでわからなかった。ゆうべ、ののがご馳走してくれた煮物は美味かったなと思い出して気を引き締める。あの味も美羽も必ず手に入れる。そのためにも今夜は正念場だ。くそ親父たちに負けてなるものか。


意味もない気合いは午後も続いた。鬼気迫るほどの仕事ぶりで周囲がきりきり舞いさせられているというのに、定時に帰ろうと必死で本人は気づいてもいない。そんな日に限ってトラブルはくる。終業前にかかってきた電話は得意先からだった。気むずかしい担当者は丈と懇意にしているし行った方が早い。決断力は長所のひとつだ。丈はさっさと支度した。

「直帰するのであとはよろしく」


丈の姿がフロアから消えたとたん、燃え尽きたと言わんばかりにドサドサと倒れ込む者が多数。

「……亀沢さん、切れてましたねえ」
「いろんな意味でな」
「彼女となんかあったんでしょうか」
「そういえば今朝、切り捨て御免くらってたような」
「時代劇かよ」

先輩同僚後輩がこぞって、疲れた笑いとため息で和んでいるなど、先を急ぐ丈が知るよしもなかった。



彼が見えたとたんに机の下へ美羽が潜り込んだのは本能だった。総務の誰もに唖然とされる。

「私はいません！　お願いします！」
日本語としては文法も何もあったもんじゃないが、説明抜きで意図だけ伝えようとしたらこんなものだ。言葉よりも指一本立て、しーっと囁いた必死の形相が効いたのだろう。次の瞬間飛び込んできた丈に、なおのこと納得したらしい。

「美……白兎さんは」
「えっ？　あっ、その」
「ランチ？　そう、ランチにもう！」
「用があるとかで、早めに。ねえ？」

ありがたやなんまいだと両手を合わせ、机の下から同僚達を拝んで感謝する美羽だ。どうしても今日はつかまりたくなかった。何故って、自分は怒っているから。

そう、怒ってるのよ。
めらめらと沸き立つ怒りは夕べから静まる気配がない。

「白兎さん？　彼、行っちゃったわよ」
のぞきこまれてあわてて笑みをとりつくろう。質問攻めを覚悟していた美羽だが、意外なほど誰も突っ込んでこなかった。日頃穏和な巫女さんが背負っている怒りのオーラに、誰もが無意識にたじろいでいるのだとは気づいていない。


昨夜、父から携帯に連絡があったのは、亀沢の家から自分の部屋へ帰り着いた時だ。着信に胸をときめかせたというのに、表示されたのは父の携帯。がっくりしながら出る。
「もしもし？　お父さん？」
「延期だ−！」

声の大きさに眉をしかめつつ、耳元で脈絡なく怒鳴られた言葉が美羽の脳裏で漢字辞典状態になる。「えんき」というと素直に「延期」か？　生物教師の父だから「塩基」の方か。でもいきなり「塩基配列」を叫ぶってどういうことだろう？　やっぱり「延期」？　クエスチョンマークがタップダンスしている。

「聞いてるのか、美羽！」
「怒鳴らないで。聞いてるけど何の話？」
「決まってるだろうが。結納延期だー！」

美羽の心臓は間違いなく止まった。娘の息の根を止めるなどという非道な父親は、水戸黄門に成敗してもらうべきだ。葵の紋所が欲しい。いっそ人間の葵に叱ってもらおうか。

そんな思考も今だからこそで、そのときはほんとうに喉が詰まって息が出来なくなった。人の気も知らず、温は興奮状態で怒鳴り続ける。

『亀沢さんが前の奥さんのことを、奥さんや丈くんと共有できるようになるまで延期だ！』
「それってなんなの！　私たちとは関係」
『関係あるからおまえも、あんな頼み事をしたんだろう？』
反論が封じられる。

「だ、だから亀沢のお義父さんと話を」
『さっきまで話してたから言ってるんだ！』
「お父さんまさか、亀沢のお義父さんとケンカしたの？」
『ケンカできりゃ怒っとらん！　とにかく延期だ！　いいな！』

いいわけないでしょう、と言うひまも与えずに携帯は切れた。余りと言えばあまりのことに、誰もいない部屋で美羽は地団駄を踏んでわめいたが、今連絡しても温が聞いてなどくれまい。それより丈だ。ところが何度かけても通じない。何してるんだろう。一時間もしてからようやく繋がったと思ったら、白兎の実家へ行ってきて温にも会ったというではないか。

「『仰ることももっともだし』ってどこがよ！」

つもりつもったストレスがとうとう引火したからといって、責められるいわれはないと美羽は思った。しかし事態は急を要する。丈ともめている場合ではない。今日こそラスボスと対決しなきゃ駄目。

固い決意を抱いた美羽は終業時間になるやならずやで会社を飛び出した。見送った総務の面々は妙にぐったりと顔を見合わせる。
「白兎さん、珍しく怒ってたわよね」
「亀沢さんとケンカしたのかしら」
「結構迫力ね」
などと、垣間見た巫女さんの新しい一面を共に噂しあったのだった。



「結納延期？」
「あなた、白兎さんと何を話したの」
「何って、いやその、いろいろと」

連日の亀沢家詣での甲斐はあった。美羽の前には今夜こそラスボス、ではない亀沢家の主・謙介が道江と並んで向かい合っていた。その顔はかなり狼狽うろた　えている。昨夜、温と飲んだこと、途中で口論となったことは確かだが、そこで啖呵を切られたわけではないらしい。

「すまない。似たようなことは私が言ったかも知れないが」
「なんですってあなた！　冗談じゃありませんよ！」
細長い風船の真ん中を絞ったみたいに、謙介の勢いがしぼむと道江の勢いが増す。
「忍さんのことで丈さんと美羽さんのご縁を壊したりしたら、いくら私でも承知しませんからね！」

凛々しい義母の宣言に美羽は感涙しそうになった。彼女がいれば百人千人力だ。お陰で霧散していた冷静さが戻ってくる。二人の間に割ってはいった美羽は今度こそ頭を下げる。

「お義父さん、先日は申し訳ありませんでした。自分の思いつきを押しつけてお心を煩わせてしまって」
「美羽さん？」
改まって謝られ、謙介があわてる。

「謝らないでください。あなたは丈のことを考えて下さったんでしょう」
「でも私、丈さんのことしか考えていませんでした」
美羽が悔いを声に滲ませる。
「勝手でした。ごめんなさい」
「美羽さんが悪いんじゃ」
道江が言いかけるのを眼で押しとどめる。

「お詫びした上で、お聞きしたいんです。昨夜は父と何をお話しされたんでしょう」
謙介の両手が膝の上で無意識に組み合わさる。関節が白く浮き出るほど力が入るのが美羽にも見える。

「父は私に、亀沢のお義父さんが丈さんを生んだお母さんのことを、お母さんや丈さんと共有出来るまで延期だと申しました」
謙介が眼を見張った。道江はその顔を見守っている。
「共有、ですか」
「はい」

固く身体を強ばらせていた謙介がふーっと長い息と共に背中をソファに預けた。握りしめていた両手も解き、視線は相対している美羽の少し上を彷徨っている。
「ゆうべ、白兎さんに叱られました」
「叱られた？」

美羽が道江と顔を見合わせる。どういうことかと乗り出した時だ。ドアの開く音、ダダダッと足音に続いてリビングのドアが勢いよく開いた。飛び込んできたのは。
「親父！　……美羽？」

「丈さん」
「丈」
「あらあら」

肌寒い日だというのに額に汗が光っている。美羽の姿は予想外だったろうが、迷わずそばへすっとんでくる。

「なんでいるんだ。会社じゃつかまらなかったくせに」
「つかまりたくなかったんだもの」
「俺に怒るのはお門違いだと思わないか」

「お父さんの言いなりになるから」
「言いなりじゃない。先に親父をなんとかしなきゃと思っただけだ」
美羽に似合わぬきつくしかめていた眉がふっと緩む。

「私もそう思ったの」
「意見が合ったな」
「そうね」

ゆうべから高ぶり続けたテンションが下がるにつれ、美羽の心に別の感情がじわじわと募ってくる。笑みを浮かべた丈にじわりと眼の奥が潤む。喧嘩したかったわけじゃない。決してそうじゃない。

「……ゆうべはごめんなさい」
「俺も。連絡しなくてごめん。不安だったよな」
みつめあったふたりが周囲を忘れそうになったところに声がした。


「そういうところが私には足りなかったんだろうな」

思わずふりむいた眼に謙介の、苦そうな笑みが映りこんだ。