コートの上から分厚い疲労が覆い被さってくるようだ。

白兎家を辞した丈はようよう自分のマンションにたどり着いた。エントランスの扉まで重く感じる。思いはめまぐるしく入れ替わり形をなさない。父のこと、生みの母と育ての母のこと、白兎の両親のこと、そして何より美羽のこと。

エレベーターが下りてくるのを待ちながら携帯を開いた。白兎家を訪れる際に電源を落としていたが、その間も美羽から着信が幾つも入っている。メールと合わせると二日間でかなりの数だ。

悪いと思いながらも父から聞いた話で混乱した丈は応えることが出来ずにいた。でもひとこと、メールぐらい返してやればよかった。美羽はどうしているだろう。新規メールをと思ったとたんに携帯が震え始めて取り落としそうになる。美羽だ。ポーンと開いたエレベーターに背を向けあわてて通話ボタンを押す。

「美羽？」
『丈さんたら！　どうして連絡くれないの！』
「う、わ」

耳に貼り付けていた携帯を思わずひっぺがした。ほとんど怒声だ。さっきの温と変わらないくらいの迫力。父娘だなぁ、なんてのんきなことを言ってる場合じゃない。

『丈さんてば！』
「美羽？　ちょっと、声でかすぎ」
『なによもう！　ずっと無視してたくせに！』
今にも泣きそうな声にじわっと焦る。ついさっき、温の「結納延期宣言」が横断幕になって目の前をはためいて見える。

「悪い！　無視してたんじゃなくていろいろ」
『怒っているならちゃんと怒られる方がいい！』
「違うって。怒ってない。怒るわけないだろ」

ああもう、こっちが泣きたい気分だ。男はこういうとき制約が多くて不公平だなと思ったら、急に携帯の向こうが静かになった。それはそれでひやりとする。
「美羽？」
名前を呼ぶと微かな声。

『ならどうして。連絡くれないの』
「悪かった。自分の中で整理がつかなくて、どうしたらいいかわからなかったんだ」
また沈黙が落ちる。携帯に耳を押しつけて彼女の息づかいまで聞き取ろうと必死になる。

『さっきまで、亀沢のご実家に行ってたの』
「うちに？」
『でもお義父さんは帰りが遅くなるってお会いできなかった。代わりにお義母さんとお話したわ。……亡くなったお母様のことも伺いました』
丈も言葉を途切れさせた。生みの母の昔についていまさら厭うつもりなどない。ののに言ったのは本心からだが胸中が複雑なのも確かだ。

母親の浮気なんて昼ドラみたいで話したくはないが、美羽には話さぬ訳にもいかない。道江が言ってくれたなら都合がいいはずなのに何故か微妙だ。覚えていなくてもやはり全くの他人とも違うのか。

『連絡くれないのは丈さんも悩んでるからって思ってたけど。でも。何か言ってくれなきゃわからないじゃない』
「ほんとにごめん」
『おまけにさっき、お父さんたら結納延期なんて言い出して』
「もう聞いたのか？」
『………もう？』

急激に低まった声の響きが、丈にかつてない危険信号を点滅させた。つきあいだして半年余り。幸か不幸か本気で怒る美羽を見たことはない。ひょっとしたら眠れる獅子のしっぽを踏みつけただろうか、俺は。

『もうってどういうこと？　丈さんどうして知ってるの』
「いや、それはその、美羽はうちに来てたんだろ？　俺はさっきまで白兎の家に」
『うちに？』
どんな窮地も平然と切り抜けると評判の男が、しどろもどろだ。

「おれもお義父さんにお詫びに行ったんだ。そしたらいなくて、お義母さんに晩ご飯をご馳走になってたら。お義父さんはうちの親父と飲んでたらしいんだけど、ケンカしたみたいで怒って帰ってらして」
なんだこの新入社員のプレゼンテーションみたいな、冗長な説明。指導する立場ならすぐやり直しだと自分で呆れる。

「それで言われたんだ。この話が片付かない限り」
『結納延期だ、って？』
低い。通常ソプラノかせいぜいコントラルトの高さでしゃべる美羽が、バスかテノールなみの低さまで出せるなんて、知りたくなかった。

「そう、なんだ、が」
『それで、言いなりで帰ってきたっていうの』
「いや、お義父さんも興奮してたし、仰ることももっともだし、まず親父と話をしないと……」

再びの沈黙はせいぜい一分程度だったが、果てしなく長く思えた。
挙げ句に。

『………か』
「…なに？」
『………さん、の』
「美羽？」
低い上に小さくなった声を聞き取ろうと携帯を耳に押し当てた丈は、ついさっきもこんなことをしたよなと思った。とたんに。

『……ぶぅわぁっかああああああーーーっ！』

大声は立派な凶器だ。右から左へ槍のごとく耳をつんざかれた丈は、うわんうわんと鳴る頭にくらりとよろめいた。携帯を耳から離す気力もない。美羽の容赦ない攻撃は続く。

『なんで帰ってきちゃうのよ！　結納が延期になってもいいの？』
「美羽、待て」
『信じられないっ。延期なんて嫌ですからね、ぜぇーったい』
「落ち着けって。俺だって嫌だよ。でも今はとにかく」
『もういいです！　丈さんには頼みません！』
「美羽？　み−」

ブチッと切られた携帯を丈は唖然とみつめた。あわててかけ直すが聞こえるのは『ただいま電波の云々』というコールだけ。

「あいつ！　電源切ったな！」

今から美羽の部屋まで行こうか。だが時刻はもう遅い。自分も彼女も明日は普通に出勤日だ。第一、美羽よりも父をなんとかしなくては、温の説得もできやしない。

「ああもう、くそぉおっ！」
髪をがしがしかきむしりながら、いつのまにかマンションの外へ出ていた丈はいらいらと足踏みした。

まだ早い春。夜は冷え込む。今日は仏滅だったか。毎朝、時計代わりにつけるテレビ番組の占いなど気にしたことがないが、たぶん最悪の運勢だったに違いない。エントランスのガラス戸にもたれそのままそこに座り込む。

父に叱られてすねた小学生の頃みたいだと自分を嗤う。いつも道江が最後はとりなしてくれたっけ。誰が悪いわけでもないのにどうしてこうもこじれたのか。疲れ果てた丈にその夜、救いの手はなかった。