後悔に胸を苛まれながら、美羽が亀沢家の前に立ったのは二日後の夕だ。仕事を終えた足でまっすぐやってきたのだが、この家をこんなに緊張して訪れたことなどなかったと、その事実にまたうなだれる。いつだって歓迎してもらっていたのに、どうしてあんなことを言い出してしまったんだろう。


あの後、丈に連絡をとろうとしてもメールは返らず着信も取ってもらえない。会社でも会いにいったが、どうやら外出していたようで姿は見えなかった。つまりは返信のないのが返信みたいなものだ。出逢ってからいつだって彼は連絡を途絶えさせることなどなかったのに。

自分が悪いのだから自分から動かねば。日を置けばさらに状況は悪化しかねない。覚悟して来たのに、いざとなると身はすくむ。勇気を振り絞るようにして、インターホンを押した。

『はい』
「あの、白兎です」
『美羽さん？』
聞き慣れた声がやけに胸に染みて、切なかった。



同じ頃、温は山手線の駅で謙介を待っていた。勤め先の高校に、仕事の後で話がしたいと電話がかかってきたのは昼休みだ。一応の事情は直後に美羽から説明された温だったが、父親として娘に代わりきちんと謝罪がしたいと思い承諾した。

互いの職場から近いところと謙介が決めた駅に温は馴染みがないが、この時間の改札はどこも似たような光景だ。人波を分けてくる謙介を認め手を挙げる。平日に会うのは初めてだ。端から見ればただの同僚だろうか。髪のせいで自分の方が老けて見られそうだ。それも悔しいなどと思う間にやってきた謙介が会釈する。

「お待たせしましたか」
「いえいえ」
「知っている店があるのでご案内しますよ」
「おまかせします」

定年を過ぎた謙介と定年手前の自分。さっき、ののに遅くなると連絡したら「親父の会？　アラシックスね」などと言われた。なんのことかと聞くと「アラフォーの先よ」なんてやっぱりわからないことを。帰ったら解読してもらわないとな。ののさんは変なところが若くて困る、などと思考が別のことに逃げるのはやっぱり緊張しているんだろうか。途中くぐった暗い地下道、小さな灯りの点滅が二人の影を不穏に揺らして見えた。



同じ頃、白兎家ではののが食卓を見下ろしていた。せっかく用意した夕飯なのに、もう少し早く連絡してほしいものだ。明日の朝ご飯かしらと脳内算段していたらインターホンが鳴った。

「はい？」
『亀沢ですが。お義父さんはまだお帰りじゃないでしょうか』
「丈さん？」
びっくりして玄関に走る。確かに丈だ。平日に一人で来るなんて初めてかもしれない。

「こんばんは」
「いらっしゃい。お父さんに用？」
「お義父さんとお義母さんに」
「あらあら。さっき連絡があって今日遅いんですって。アラシックスの会」
「アラシ？」

丈の耳には『嵐』しか聞こえない。『嵐の会』？　アイドルが好きなんだろうか。お義母さんならともかくお義父さんが？　いくらんなんでも。

「え、っと、あの、遅いんでしょうか」
意味はわからぬまま肩を落とす丈を見て、ののは突然マンガみたいに手を叩いた。

「丁度良いわ。ご飯まだでしょ？」
「は？」
「夕飯作っちゃったの。食べていって」
「え？　いや、その」
「上がって頂戴。ほらほら」

否やは聞かない。あれよあれよという間に腕をつかまれ、丈はののにひっぱりこまれてしまった。



亀沢家のリビングで美羽は道江と向かい合っていた。今日に限って謙介は遅いと聞き落胆する。彼に会わねば意味はない。都合も聞かずにやってきたのだから仕方ないが、都合を聞いて断られるのが怖かったのだ。

花房のようにふちのひろがった薄手の湯飲みが、美羽の前にそっと置かれた。湯気のぬくもり。向かい合って座った道江はいつもと同じだ。少し申し訳なさそうに詫びてくる。

「ごめんなさいね。滅多に遅くならないのに、タイミングが悪いったら」
首をふった美羽は姿勢を正すと、湯飲みにかぶさるほど頭を下げた。

「先日はすみませんでした。ご家族のことに口を出してお義父さんに嫌な思いさせてしまって」
「美羽さんそんな、やめて」
「ごめんなさい」

「ねえ、私に謝ることないのよ。ほんとは私が言うべきだったの」
「え？」
思いがけぬ言葉に美羽が思わず顔をあげると、道江は怒るどころか苦笑している様子だ。

「お義母さん？」
「一昨日丈さんにも話したんだけど。美羽さんも聞いてもらえるかしら」

道江が語り出したのは、謙介と前妻で丈の生みの母・忍の離婚にまつわる経緯だった。


「私は結婚前に聞いていたんだけど。丈さんは全然知らなかったのよ」

そういう道江の手元にある湯飲みは厚手の筒形だ。謙介とそろいなのを何度も眼にしている。小柄な道江は手も小さく、両手で大事そうに湯飲みをすくう様子は、失礼かも知れないが美羽にも可愛らしく見える。

「前の奥さんとはお見合い結婚だそうよ。親戚の紹介とかで、結婚までは地方にいらしたんですって」
結婚当時、謙介は三十手前。前妻の忍は二十一。若くてまだ子どものような人だったとは謙介の弁だという。

「無邪気で可愛い、そこを好きになったんでしょうね。結婚してすぐに丈さんを授かったそうよ」
亡くなったといえ夫の前妻についてやわらかく語る道江に、美羽は畏敬の念を抱く。道江自身も離婚・再婚してきたからかもしれないが、経験からというより道江の人柄と美羽には思えた。

「長所と短所っていざという時は裏返しになったりするの。私は忍さんに会ったことがないから、彼女の人となりのことをとやかく言えないんだけど。丈さんがうまれる前後からずっと、お父さん−謙介さんは仕事も忙しかったらしくて」
初めての土地で見知らぬ人ばかりの中、初めての子どもを抱える。美羽にも想像は出来る。きっと心細かったり寂しかったりするだろう。

「ご実家も遠くて、手助けとかもらえなかったんでしょうね。だからって言い訳にはならないんだけど」
「言い訳、ですか？」
いぶかしむ美羽に、道江は声を落として告げた。

「離婚の直接の原因はね。忍さんが他の男性と親しくなったからなの」


思いもしなかった事実に美羽は言葉を失った。
不安がさらに色濃く広がっていく気がした。