「待てよ親父」
タクシーの助手席からの丈の呼びかけに、謙介は応えることなく玄関をくぐって消えた。


白兎家への訪問は酒になるだろうと見越してタクシーにした丈だが、行きは実家から向かったものの帰りはマンションに戻るつもりでいた。ところが思いがけぬ美羽の発言と対する父の拒絶で戻らざるを得なくなったのだ。

代金を払って車を降りた丈は、玄関で母と顔を合わせた。いつもの陽気さは影を潜め、何か確たる考えを抱いて見える。口にしなくてもそれぐらいはわかった。生んでもらってこそいないが物心ついてから母と呼ぶのはこの人だけだ。

「母さん、親父はどうしたっていうんだ」
「丈さんは反対？」

母の反問に丈は言葉を失う。反対とか賛成とかそれ以前に、美羽の父に明石の席を頼まれた時も生みの母のことなど考えなかった。正直に言えば考えたくなかったのかもしれない。

「母さんこそ嫌じゃないのか」
「どうして？　私だって碧や萌の花嫁姿を見たいんだからきっと、丈さんを生んだお母様もって考えるわ。それに」
「それに？」

「そうした方があなたにとっても、お父さんにとってもいいと思ったの」
「俺も親父も？」
「ええ」

何故と、問いを重ねるのはためらわれた。もしかして母は丈の秘密、実の母の死に際して持った罪悪感を知っているのかと思ったが、そんなはずはないと打ち消す。誰にも父にすら話したことはない。知っているのは美羽だけだ。そう、美羽だけが知っている。だから彼女はあんなことを言い出したに違いない。

なら、どうして道江が自分にとっていいと思うのか。……父にとっても？　父はどうしてあんなことを。

『駄目だ』

寡黙だが穏やかで家族に対しても他人に対しても懐が広いと思っていた父なのに。疑問はぐるぐる、竜巻のように大きくなっていく。母を残し、靴を脱ぎ捨てた丈はリビングへと急いだ。


謙介はダイニングテーブルで腰を下ろしていた。手元には底に少し水の残ったコップが置かれ、両肘をついて組んだ手に顔を伏せている。元々あまり酒に強くない人だ。いつもなら寝ていると思ったかも知れない。だが今夜に限っては、彼が酔っても眠ってもいないのを丈は悟っていた。

「親父」
一拍おいてゆっくり身を起こした謙介がこちらを見た。疲れた顔に胸が痛むが。

「美羽は俺によかれと思ったんだ。俺自身は美羽が言ったことを考えていたわけでも望んでたわけでもない。でも、あの場であんな風に突っぱねることはなかったんじゃないか？　白兎のご両親はうちの事情をご存じないんだし、あれじゃあ」
「……悪かった。美羽さんにも白兎さんにも。つい感情的になって」
「感情的？」

今夜は何度驚かされるのだろうと丈は思った。口重で穏やかで冷静な父親が感情的になったところなど見たことがない。

「丈、おまえはどう思う。美羽さんが言うとおりにしたいか？」

問われて丈は助けを求めるように周囲を見回した。住み慣れた実家のリビング。にぎやかなのが好きな母はあちこちに写真を置いている。中学時代の自分。小学生の、もっと小さい頃の自分。道江と父が結婚したのは小学４年生の時だったが、今ではもっともっと昔から道江と過ごしていた気がする。記憶の中で母とは道江のことであり、丈を抱きしめ笑わせ叱ってくれたのは道江だった。

「……わからない。ほんとにわからないんだ」
「何が」
「あの人は今更それを望むんだろうか。俺の結婚式に写真ででも参列したいのか、することを喜ぶのかどうか。俺は何も知らない。あの人のことを何も覚えてないんだ」
父と息子の間に沈黙が横たわる。謙介が低い声で言った。

「知りもしない母親が喜ぶかどうか悩むんだから、おまえは優しい。いい男に成長したな。私はそれを嬉しく思っているし道江に感謝している。なのに。私ときたらどうだ」
らしくない苦々しげな口調に丈の戸惑いが大きくなる。

「親父？」
「さっき私が何故、駄目と言ったかわかるか」
「いや」
じっと、謙介が丈に当てたまなざしはひどくきつく、嘲りは自分自身に向けているようだ。

「私は喜ばせたくないんだ彼女を。死んで何年も経つというのに。おまえを生んだ人なのに。思い出したくない。たとえ写真であろうと式に出席してほしくない」
父に似合わぬ激しい感情があふれだして丈を打つ。めまいがする。聞きたくない、でも聞かずにいられない。

「どうして」
「あなた」
丈のうしろから声がとぶ。ずっとそこにいたのだろう、道江の声はためらいのような警告のような。自分を挟んでぶつかる視線は何を交わすのか。視線を丈へ戻した謙介の、長い道のりに力尽きた旅人みたいな声が告げる。

「忍と。おまえを生んだ母親と離婚した理由、話したことなかったな」
「……ああ」
「浮気だ」
「は？」
「浮気が原因だった」

どやされたような衝撃だった。道江のため息がかぼそく背中でわだかまる。丈の白く、感情が剥がれ落ちた表情を見て謙介が眼を細める。

「昔のことだ許してやれと、おまえにそう言えればいいが、できない。何年も経ってからおまえを連れて会いに来てくれと、手紙で懇願されたあの時だってできなかった」

丈は思い切り目を見開いた。耳にしているのは事実だろうか。あの時、父は生みの母が会いたがっていた、その理由を知っていたのか？

「私は、情けない男だな」

組んだ両手に額を伏せて謙介はうなだれる。しんと、再び下りてきた沈黙は濃霧のように深く鉄板のように重く、亀沢家のリビングを沈めていった。