何が起きたのか。
どうなってしまったのか。

美羽を呼び続ける丈が感じていたのは、生まれて初めての真なる恐怖だった。



最悪の夜は光と酒のおかげでずいぶんマシになった。ろくに酔えなかったが眠る助けにはなったし、起きた時には気持ちを切り換えることが出来た。

とにかく彼女に逢わなくては。
逢いさえすれば、話を聞いてくれれば、納得させる自信はある。
なのに。


翌朝になっても、彼女の携帯は一向につながらない。朝一番で部屋に行ってみたが帰ってきた様子もない。自分のマンションに戻ったあとは他に術はなく、命綱と思って繰り返し携帯を鳴らし続けるしかなかった。

神様は丈を見捨てなかったようだ。無意識下でも数えられぬほどかけた発信は、唐突に届いた。


『もしもし』
「美羽？　美羽だな？　どこにいる？　すぐ行くから」

こんなに焦ったことなんてない。人の気も知らずに彼女はのんびり、バスに乗ってますなんて話し始める。その声をゆうべからどれだけ聞きたいと思ったか。


『明石のお墓参りに行きましょう。一緒に行って下さい』
喉に何かが絡んだ。胸の重石が落ちて消える。

『碧さん、隣にいますよ。碧さんの彼にも会いました』
なんで碧や波布に逢ってるんだ。俺じゃなくて。

『つまり、丈さんに逢いたいってことです』


絶対この先も彼女には勝てない。あぁもう。笑ってる彼女を抱きしめてキスしたい。今すぐに。
「どこに行けばいい？」
聞いた直後だった。


『うそ』

美羽の驚いた呟きは、大きなブレーキ音と衝撃音に掻き消されて。それっきり応答はなく携帯は切れてしまった。


衝撃音。
バス？


全身に悪寒が走る。彼女の弟の事故が過よ　ぎるのを必死で振り払う。今は一刻も早く彼女のところへ。

どこだ。


丈は葵の番号にかけた。夕べ止まったホテルの場所を聞こうと思ったのだがちっとも出ない。さまよっていた視線は、意味もなくつけていたテレビ画面上部、流れる速報に釘付けになった。

「△△区○○通り交差点でバスとトラックが事故」

飛び出しかけたが、美羽が言ったのを思い出す。
『隣に碧さんが』
あわてて名刺入れをひっくり返した。もらってそのままにしていた波布の名刺をつかんだ丈は、今度こそ部屋から駆け出していった。





「軽傷ですんで良かった」
腕に、薬を塗ったガーゼと包帯を巻きながら看護師が言う。痛みに少し顔を歪ませながらも碧は頷いた。

確かにそのとおりだ。もっとひどい惨事もありえたと思うと震えがくる。テキパキと処置を終えた看護師は宥なだ　めるように腕に触れる。

「もう大丈夫だから」
「ええ。　…あの、もうひとりの女性は」
「あぁ、お友達？」
そう呼んでいいのかためらう碧だが、忙しい看護師は頓着しない。

「奥よ。肩と背中、刺さったガラスの治療中。たいしたことないからね」
「ほんとに？」
「心配しないで」
もう一度手に触れ微笑むと、彼女は去った。


救急病院の処置室。ベッドに腰を下ろし、碧は背中を丸めた。こうしているとさっきまでの現実はテレビドラマにしか思えない。


場所も気にせず泣いていたバスの中。
突然誰かが負ぶさったと思ったら、激しい衝撃を受けて床に投げ出された。気づくと路上に寝かされていた、自分。

「聞こえます？　わかりますか？」
救急隊員らしき人の問いかけに戸惑いながら頷く。なんとか状況を把握しようとする。

「なにが、あったんですか」
「事故です。交差点を暴走したトラックが、あなたの乗っていたバスの鼻先を突っ切ったらしいですよ。衝突でなく接触ですんだのは幸いでした。死亡者もなくて」

事故だったのか。一生懸命聞こうとしてもどこかぼんやりする意識は、聞き覚えのある声で覚醒する。

「あの、携帯知りませんかあたしの。どこかにいっちゃって」
「ちょっと今は無理ですね」
「でも連絡を」
「しみますよ」
「痛っ、痛いです」
「ガラスを浴びてますからね。コートが厚地で運が良かった」

ゆっくり首を回すと、うつぶせで寝かされている女性。
「美羽、さん？」

両腕にのせた顔をこちらに向けるのはやっぱり、美羽だ。そのむこうで事情聴取なのか、別の人に跪いている警官も見える。

「碧さん。痛い？」
「私は平気、だけど」
「よかった無事で。…碧さんあの、携帯持ってます？」

首を振ってからハッとした。うつぶせの彼女。ニットの背中から滲んでいる血。クシャクシャで置かれているコートがキラキラして見えるのは、ガラスの破片。あの時覆い被さったのは。

「美羽さん、まさか。私をかばって…？」
返事に困って、それでも彼女は笑うのだ。あの、ふんわりした笑みで。

ようやくわかった気がした。
丈が選んだ理由。母が可愛がる理由。

「生きてて良かったですね」

きっと。ああいう人だから。





ドアの向こうが騒がしくなった。
「まだ治療中で」
「身内なんです。美羽？」
「碧！」

飛び込んできた二人の男性。でも、碧の眼には彼しか映らなかった。
「清高！」
溢れる思いで手をさしのべた碧へ、駆け寄った彼は青ざめている。
「碧？　怪我は？　大丈夫なのか？　碧」

触れていいのか、でも触れずにいられない。そんな風に髪を、頬を、腕をなでさする。彼の手のひらの感触に今日、初めて安堵する。

「大丈夫。後ろの方だったし、美羽さんがかばってくれたから」
「美羽？　美羽はどうした？　どこにいる！」
取り乱した形相。わめく声。碧も初めて見る丈の姿。

「命に別状ないわ。向こうで治療して」

言葉半分ですぐ消えてしまった丈。
名残のような寂しさは抱きしめられて消え失せた。波布を見上げる。

「ごめんね。ごめんなさい」
「なんだよ」
「今まで、勝手なこと言って傷つけて」
「碧？」
「わかったの。私、清高が好きなの。丈さんよりも」
「知ってる」
波布の笑みはいつもよりも優しい。
「ここに来た時。亀沢さんが前にいたのに、僕を呼んでくれただろう？」

あふれ出す涙が波布の胸を濡らした。今日は泣いてばかりいる。


「碧、携帯は？」
「……家に忘れて」
「なんだ。かけてもかけても応答なくて焦りまくってたのに」
「それなら私だって昨日からずっと」
「…もしかしてさっき、バスで、僕のところに来るつもりだった？」
言い当てられて碧はうつむいた。清高の声が嬉しげになる。

「どうして下りなかったんだ」
「なによ。美羽さんと一緒にいたくせに」
「あのさ、さっきから名前が出てくるけど。美羽って誰？」
見上げた波布の顔が美羽の顔と重なって、碧はホッとしながらも笑わずにいられなかった。

「おい」
「バス停で握手してたでしょ」
「…彼女？　碧、知ってるのか？」
「だから。丈さんの大事な人」
「え？　…は？　ええっ？」
本気で驚いている波布に吹き出した碧だが、それが傷に響く。

「いたっ」
「うわ、ごめん。大丈夫か」
「ちょっと擦り傷があちこちあるから」
「そうか。でも良かった。亀沢さんに電話もらった時は、心臓が止まるかと思った」
「丈さんから？」
「あぁ。事故が起きる寸前まで彼女と電話してたらしい」

自分が泣いてる時だろうか。それでも咄嗟に自分をかばってくれた。

「美羽さんのおかげなの。これぐらいですんだの」
「そう、か。改めてお礼しなきゃな」
「お詫びも言わなきゃ」

こんな風に安らかな気持ちで彼といられるのも美羽のおかげだ。心に巣くい続けた未練。捨てきれなかった思いを、綺麗に整理してくれたのが彼女だなんて。

不思議な巡り合わせに碧は思いを馳せた。今度こそ、心からの気持ちで二人の指輪を作らせてもらおう。

ホッともたれた彼の胸元に自分が作ったタイピンをみつける。碧が浮かべた笑みはどこか美羽に似ていた。





この、足元の不確かさはいつまで続くんだろう。
とにかく早く彼女の顔をみなくては。

碧の差した方へどんどん進んでいった丈は、声を聞き分けた。


「あの、動いていいですよね？　あたし、電話を」
「立ち上がるのは無理じゃない？」
「でも電話しなきゃ」

カーテンをいきなり開けた。
ギョッとしている看護師。その横に、美羽が居る。
「ちょっと。なんです声もかけずに」
「丈さん？」

どちらにも答えずにズンズンと歩み寄った。見えるのは彼女だけ。病院でよく見る青色の服。胸に巻かれたらしい白い包帯がのぞく。

「怪我したのか。どこを」
「大丈夫。ごめんなさい。驚いたでしょ」
「あなた、聞いてます？」
「いいから具合は」
「背中をね。ガラスが割れて、でもでもたいしたことないから」
丈の血走った目に美羽はあわてている。看護師の苛立った顔。

「ちょっと！」
「彼女の怪我はどんな具合でしょう？」

人の言うことは聞かずに自分の聞きたいことを聞く。日頃の丈にはあるまじき態度だが、今はただ必死だった。看護師にも切迫した様子が伝わったらしい。

「…割れた窓ガラスを背中に浴びたようですが、刺さったのはわずかでした。コートが厚手だったおかげです。破片も残っていません」
「ほんとうに？」
「手当はすみましたから、これが薬の処方箋です。会計で精算をすませれば帰れますよ。その前に何か服が要りますね。着ていた服はその紙袋にありますが、ガラスが危ないですし。今夜は傷で熱が出るかも知れません。抗生物質と熱冷ましを飲むこと。日を改めて外来に保険証を持ってきて下さい」


細かな説明を聞くうちに足元がますます覚束なくなってきて、丈は美羽の横にどさりと座り込んだ。看護師が目元を緩ませ美羽に微笑む。
「駆けつけてくれる人がいるのは幸せな事よ」
「…はい。ありがとうございました」

立ち去る彼女へ向かって深く頭を下げた丈が、そのまま動かなくなる。
「丈さん？」
そっと肩に触れる彼女の指をギュッと握りしめた。


温かい。
生きている。

抱きしめようとして背中の傷を思い出し、それでも我慢できなかったので膝に抱き上げ腕で囲った。美羽がためらう。

「髪、気をつけて。まだガラスがあるかも」
「かまわない。痛い方が安心する。ここにいるって」
「丈さん」
「…死ぬより怖いって意味が、初めてわかった」

だから今は。


背中を痛めぬように、でもできるだけ近くに。恐怖が安堵に変わるにはまだしばらく時間がかかりそうだと丈は自嘲した。





彼の震えが、鼓動が、伝わってくる。
心配させてしまったんだと美羽は目頭が熱くなった。あんな風に会話が切れればあたりまえのこと。だから。

「携帯が、壊れちゃって」
小声で訴える。
「救急車の人にも看護師さんにもお願いしたんです。電話させて欲しいって。でも治療がやっぱり先で」

丈が美羽をのぞき込んだ。
「…さっき、電話って言ってた」
「丈さんに。大丈夫って言いたかったから」
丈が必死で、抱きしめる力を堪えているのを感じる。

「いいの」
美羽はひたすらに身を寄せて囁いた。
「痛くていいから。ぎゅって、して」
「美羽。煽るな」
ため息のような丈の声。

「言えなくなるかと思った。怖かった。…ごめんなさい。大好き」

今度こそきつく固く締まった腕。痛みなんて感じない。


「…いしてる」
耳元の囁きで美羽の視界がゆっくりぼやける。


今、世界には自分と彼だけ。
満ち足りていた。