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11章  Bus



碧が凝視していたのは流れる車窓ではなかった。

信じられなかったのは手を握りあうツーショットなのか、それとも。見たとたんに燃え上がり身の内を舐め尽くそうとした激しい炎だったのか。以前感じたものなど比較にならない。触手を伸ばす赤い火の手に心が握りつぶされそうな、こんな気持ちは初めてだった。


波布がそばからいなくなったら?
思うだけで息が足りなくなる。



先週、亀沢の家から帰ってからずっと、碧は自己嫌悪の塊だった。母に聞いたことや美羽への押さえられなかったジェラシーに苛まれた上、丈が知ったらどうなるのかと。自業自得とはいえ怖かった。

恐れとともに過ぎた一週間。土曜の朝、波布を呼び出したのは、眠れぬ夜が続いて耐えられなくなったからだった。まさか丈と鉢合わせしようとは。その上。

丈に責められるのは覚悟していたけれど、波布に置き去りにされるなんて。彼が離れていくなんて碧は夢にも考えなかったのだ。


携帯は何度かけても出てもらえず。どれだけ送ろうとメールはもちろん梨のつぶて。自分がしたことを思えば当然だったが。どうすればいいのか。うろうろと部屋を歩き回るうちに夜は明けてしまう。

会いに行こうと決心した。



着替えもそこそこに財布をつかみエレベーターを下りたそこで、車のキーを忘れたと気づく。ここで引き返したら動けなくなるかもしれない。

波布の住むところへはバスでもいける。田舎育ちだと言う波布が以前、寝物語に話してくれたことがあった。温かい腕に包まれての記憶。

『僕の部屋の近くに同じ路線の停留所がある。バスって好きなんだよ。田舎を思い出すから』



バス停で乗り込んだのは碧だけだった。休日運行で少ない本数。5分で来たのは運が良かった。ステップをあがった碧は乗車賃を入れる場所にとまどったが、運転手が鷹揚に教えてくれる。

「ここに入れて下さい」

硬貨の投入口は子どもの頃の遊具を思いださせた。バスに乗ること自体、ずいぶん久しぶりだ。頼りない足取りで後方、二人がけの窓際に腰を下ろした。


車でしか知らない道をいつもよりずっと高みから見る。初めての景色。もっとも今の碧は波布のことしか頭にない。

居るだろうか。会えるだろうか。
居なかったらどうしよう。


急く気持ちをからかうように幾度も止まるのは、途中途中のバス停と信号待ち。イライラと焦りの果てにやっと波布が言ったバス停が見えた。

腰を浮かせた碧だったが、窓から見える人影にギクッとした。シルエットだけでわかってしまう、彼。 一瞬待っていてくれたのかと期待したがそんなはずもなく、バス停で誰かと手を握りあっている。


彼の微笑みと隣の女性を見分けて、頭が真っ白になった。
彼女と、どうして?





足の力が抜ける。停車の反動で碧は再び座席に座りこんだ。乗車口から花を抱えた美羽が乗り込んでくる。碧に気づかず前に座って波布に手を振る。

自分ではない女性に向けられる彼の笑み。どす黒い感情と共に、冷水を浴びせられたように気づいた事実があった。


こんな思いを波布にもさせていたのだろうか。
自分が丈と会うたび。丈を語るたびに。
彼は。


だから、とうとう。


バスが動き出しても碧はやっぱり動けなかった。自分を見て驚いた波布の顔は悪い夢みたいに歪み、あっという間に後ろへ過ぎてしまった。





美羽が、緊張せずにバスに乗れるようになったのは最近だ。

明石の事故から1年はバス停に近づくこともできなかった。大学まで駅からの長い道は卒業までずっと歩き通した。

あの路線は今も乗れないけれど、少しずつ折り合いをつけようと努力したおかげで、他のバスなら乗れる。ただ落ち着かない。前、横、後ろ。こんなに空いていると余計に。


後ろへ視線を流した美羽の脳裏に、何かがひっかかった。あれ? ふりむいたガラガラの車内奥。見知った顔を確認する。
「碧さん?」

穴の空くほどこっちを見ているのに返事はない。美羽はためらったものの、花をもって立ち上がると、揺れる車内のあちこちに縋りながら後ろへ向かった。

近づくにつれ、尋常でない様子の彼女に驚かされた。乱れた髪。化粧っけもなく青ざめた顔。ラフな服装。眼が赤いのは寝不足だろうか。グッとカーブで車体が傾ぐ。座席上の手すりにつかまりながら、通路を挟んで碧の右側の席に美羽は身体を滑り込ませた。ホッとする間もなく。

「とらないで」

投げつけるみたいな言葉にとまどう。荒れたきつい眼。
何を? 誰を?

「丈さんのことなら」
「清高をとらないで」

聞き慣れない名前にまた混乱した。誰?

「私が何を言おうと丈さんはあなたのものよ。でも清高まで? 一体何処で逢ったの?」
「あの」
「とらないで。獲っちゃ駄目。そんなの許さない」

口調が駄々をこねる子どもみたいで不似合いだ。いやそれより。


「碧さん」
「彼は。彼だけは」
「みどりさん!」
二人の他に3,4人しかいない車内。全ての眼がこちらへ注がれるが構っていられない。

「清高って誰ですか?」

沈黙10秒。真面目に問いかける美羽に、碧まで混乱した顔になる。


「…しらばっくれないで。さっき手を握ってて」
「さっき? あ、あの人。清高って言うんですか? 名字? 名前かな」
「名前も知らないって言うの?」
「前に道を教えてもらっただけで。ほら、碧さんのお店に行く時…」

不意に、美羽の脳内パズルがすごい勢いで合わさった。


彼が店を知っていたわけ。碧が今怒っているわけ。彼が語ったこと、なにより彼のタイピン。あれは。


「あの人が碧さんの彼なんですか?」
のぞきこむように聞かれて、碧がごくんと唾を呑み込んだ。

「そうよ。そのとおりよ。波布清高、私の彼。なのにどうして? どうしてあなたと? あなたには」
「私には」
バス特有の振動で背中を背もたれにぶつけながら言い募る碧に、美羽が続けた。

「私は、丈さんが好きなんです。ご存じでしょう?」


口を噤んだ碧とみつめあう。眉を解いた美羽はふんわり微笑んだ。
「碧さんは、清高さんが好きなんですね」

碧の眼がこれ以上ないほど見開いた。



年下の、丈をさらった憎らしい彼女に知らしめられるなんて。

『好きなんですね』

好き。大好き。
こんなに好きなのに。どうして清高に背を向けさせてしまったのか。


ついさっきから感じていたどす黒いジェラシーは、丈のためじゃない。丈のことで美羽に感じた嫉妬とは違う。波布を奪われることはもっと、ずっと恐ろしかった。

だって。
彼は私の。

『やっとみつけたの。全部預けられる人。全部受け止めてくれる人』

遠く萌の声が木霊する。
私は。

碧の全身を針金さながらに突っ張らせていた強張りが、ふっとぬけた。吹き出すようにこぼれ落ちる涙。


「…っ、…何よっ、あ、あなたなんかに…」
顔をそむけてもこみ上げてくる嗚咽が堪えきれない。様々な感情を全て押し流したあと、残った想いはたったひとり。波布への。

碧は両手で顔を覆い泣くことしかできなかった。





今度会ったら絶対、文句のひとつもいいたい。そう思っていたのに。
美羽の隣で肩を奮わせ泣いている碧は、今までとは別人だ。

さっきの人が碧の相手だと知って、美羽も驚いていた。色々なことに合点がいく。碧がちゃんと彼を想っていることにホッとした。自分のためだけじゃなく彼のためにも嬉しかった。気持ちがゆっくり丈へともたげる。


泣きじゃくる碧を見ないようにして携帯を取りだした美羽は、昨日以来初めて電源を入れた。液晶画面が映る前に鳴りだす着信音に驚く。名前を確認するまでもない。笑いたいような、泣きたいような気持ち。

これは、愛しさ。

「もしもし」
『美羽? 美羽だな? どこにいる? すぐ行くから』

焦りと切なさが滲む丈の声。

あたしはこの人が。
とても、好きだ。


「今ね、バスに乗ってます」
『バス? なんでバスに?』
「丈さん。これから時間ありますか」
『だから言ってるだろう。すぐ行くって。どこにいるんだ』
「明石のお墓参りに行きましょう。一緒に行って下さい」

丈がふっつり黙った。


「ね?」
『美羽。俺は碧とは何も』
「碧さん、隣にいますよ」
『……はあ?』
「偶然なんですけどね。さっき、碧さんの彼にもあいました」
『美羽? 何言ってるんだ? 説明してくれ』

亀沢 丈のこれほど困惑したところなんて滅多に見られない、聞けないだろう。そう思いながら美羽は前を見た。相変わらず空いた車内。キッとブレーキに車体が揺れる。


「つまり、丈さんに逢いたいってことです」
『…美羽』
「はい」
『どこに行けばいい?』
「えーっと、もうすぐJRの駅だから、待ち合わせは」


バスは交差点で信号待ちをしていた。右窓から、交わる道の横断歩道手前に車のバンパーが並んでいる。
突然、跳ねるように飛び出したトラックを、美羽は見た。

「…うそっ」


こちらの信号は青。
ゆっくり加速を始めているバスの鼻先へ、飛び込んでくる?


考えるより早く隣座席の碧に覆い被さった美羽は、そのまま座席に倒れ込んだ。碧の驚きが下から漏れる。
「な、にっ?」
「うわぁっ!」

運転手の悲鳴。激しくブレーキがかかる車体。
握ったままの携帯から丈の叫ぶ声。

『美羽? 美羽! どうした!』


丈に逢いたい。顔が見たかった。
まだごめんなさいって、ほんとに好きだって言ってないのに。


明石。
明石、助けて。



ガラスの割れる音。強い衝撃で床に落ちる。
何かが背中に刺さる。

碧の身体を必死で抱きしめたまま、美羽の意識は遠のいた。





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