翌朝、ホテルを出た美羽の上には曇り空が広がっていた。


日曜は冷え込むと言っていた天気予報は外れたようだ。風がない穏やかな日。それでもコートをまといあてどなく美羽は歩いた。電源を切りっぱなしの携帯は手に握りしめている。

何度も入れようとしたが長押しの手前で指は離れた。迷いでなく怖れ。話も聞かずに飛び出してしまって怒っているだろうか。それから小さな意地。碧のことをもう少し話してくれていれば、なんて。


ほんとなら今日はふたりで墓参りに行く約束だった。明石のお墓は郊外にある。まだ丈を連れて行ったことがなかった。

丈と出逢ってわずか半年。明石の思い出はその半年で、割れて散らばったガラスの欠片を踏むような痛みから、真綿でくるまれた棘のようなものへ変わった。温かな、痛みはあっても辛くはない。


明石のためにやっと泣けたあの日。
彼が受け止めてくれたから。　丈だからこそ。


手の中の携帯を開いては閉じる、美羽。


『時間をおくほど連絡はとりづらくなるの。さっさとかけること。いい？』

先に帰った葵に別れ際、しつこく念押しもされたのに。変なところで意地っ張りの自分が情けない。明石に笑われる……そこで思いついた。

墓参りに行こう。明石に愚痴を聞いてもらおう。
そしたら素直になれるかもしれない。


考えながら歩いていたので知らぬ間に路地へ入り込んでいた。通りはどっちだっけ。引き返すのも悔しい。知らない道を美羽は果敢に花屋を探して歩き続けた。



車の行き交う大通りにみつけた花屋は、こじんまりした可愛らしい雰囲気で美羽の好みだった。エプロンをした店員がにっこり声をくれる。

「いらっしゃいませ」
「えーっと。白に明るい色を混ぜた花束を見繕ってもらえますか？」
「はい。贈り物ですか？」
「あの……お墓参りなんです」

おもえば明石の墓参り前はいつも花屋でこんな会話だ。大抵少し驚かれる。でもここの店員はじっと美羽をみてから微笑んだ。

「春を先取りする感じにしましょうか」
「あ、それ素敵。お願いします」
「しばらくお待ち下さいね」

幸先良いなと嬉しくなった。冬のただ中でも明るい色が溢れる花屋は、確かに春を先取りしている。店先で花を愛でていた美羽は、向こうから歩いてきた人に目を留めた。


「あ」
相手も足を止めた。
「あ」
見合ってからどちらともなく笑った。以前、碧の店に行こうとして迷子になった美羽を案内してくれた彼だった。

「また会うとはね。しかもこんなところで。びっくりだ」
「ほんとに。小説なら間違いなく、恋の始まりですよね」

突拍子もない美羽の言葉に相手はパチパチと瞬きをくりかえす。


「ご心配なく。私もですけど、あなたもちゃんと相手がいらっしゃるでしょ？」
「…どうして」
「こないだタイピンをもらったって仰ったじゃないですか」

相手の表情がすっと翳って、美羽はあわてる。
「ごめんなさい。余計なこと」
「いや」

困った様子を承知で美羽はつっこんでみた。
「喧嘩、しました？」
「…え」
「奇遇ですね。私もなんです」
相手がまた、瞬きを繰り返す。

「困っちゃいますね。好きなのに。…困っちゃいますよね」


鮮やかに咲く花々に眼を落として、美羽の言葉は誰にというわけでない繰り言になった。





一度だけの出会い。でもやけに印象的だった女性を、波布は不思議な気持ちで見つめた。


あまり酒が飲める方ではない。少しでも過ごすと翌朝がきつい。わかっているから昨夜は酒にも逃げられず。かといって仕事はする気になれず。誰かに愚痴を言うのも性に合わず。

結局、通いのスポーツクラブで深夜まで身体を酷使するのがせいぜいだった。日頃デスクワークが多いので、時間がある時は身体を動かすことにしている。マシンやエクササイズを黙々とこなすのはいつものことだが、昨夜は鬼気迫るものがあったようだ。帰り際、クラブのスタッフが気にしていた。

「波布さん何かありました？　あまり無茶しないでくださいね」

苦笑いしてごまかしたが、帰り着いてシャワーを浴びたらストンと眠れたから正解だったのだろう。目覚めも悪くなかった。だが起きると忘れていた現実に徐々に心を浸食される。

放っておいた携帯には着信が４０件近く。メールも１８件。全て碧から。液晶をみつめてもまだ、連絡をとる気になれない。


閉じた空間に一人でいられなくなった波布は外へ出た。ぶらぶらと足を伸ばした先に２度目の出会いが待っていたのだった。


「困っちゃいますよね」
繰り返す横顔は、長い髪を巻き付けてあるせいか巫女さんのように見えて、つい問いかけたくなる。

「君は、困っていても迷ってないんだね」
返されるすっとしたまなざし。揺るぎなさが羨ましい。

「僕は、わからなくなった」
「何が、ですか」
「彼女が僕をどう思っているのか」
口に出して改めて気づく。そう、わからない。

「どうして？」
「…彼女はずっと、想っていた人がいるんだ。諦めきれてないのを思い知らされた」

初対面に毛の生えた程度の人間になぜ、こんなことをしゃべっているのだろう。傾げていた首をさらに傾げて、巫女さんが聞いてくる。

「想っていた人と彼女がつきあってるとか？」
「二股なんてする人じゃないよ。それに彼にはちゃんと相手がいる」
丈を思い出すと複雑だ。碧も決して想いが実るわけじゃない。行き止まりばかりだ。しばらくしてから巫女さんが口を開いた。

「彼女の気持ちじゃなくて、あなたの気持ちは？」

答えにつまってまじまじと見返す。
自分より年下だろうに凛とした声の響き。


「あなたはその人を心から思ってらっしゃるんですね」
「…何故？」
「だって。ネクタイもしてないのにタイピンはつけてるから」

細く長い指先が、淡い灯りを伴って波布の胸元を指す。あやつられるように目を遣った波布は驚いた。さっきクリーニングの袋を破ったジャケットなのに。いつのまにタイピンをつけかえていたのか。



初めてもらったバースデープレゼントだった。彼女が自分のためだけに作ってくれたこの世にひとつしかないデザインは、巻き付く優美なヘビにエメラルドの眼。

『清高の名字と私の色を合わせてみたの。素敵でしょ』

あの日の碧は、確かに自分だけをみつめて笑っていた。



「お待たせしました」
ぼんやりしていた波布を尻目に、巫女さんは注文していたらしい花束を受け取り、支払いをすませていた。

「誰かに、贈り物？」
問いかけに切なげな微笑みを浮かべる相手。
「はい。弟に」
「弟さん？」
祝い事なのだろうか。それ以上聞かれまいとしてか、彼女が聞いてきた。

「あの、ＪＲの駅って近くにあります？」
「ＪＲならバスで１本だ。バス停まで行こう」
「いいんですか？」
「わからないんでしょう？」
バツの悪そうな顔をするから笑ってしまう。同時に何かがほぐれるのがわかった。


そうだ。碧の気持ちはわからなくても、自分の気持ちはわかっている。
ならば。





休日の朝、バス停は無人だった。ちょうど良いタイミング。時刻表が示す予定にあと１分。

「まだ、諦めるのは早いよな」
振り向く笑顔は、同意と共感。
「はい。頑張ればきっと大丈夫」
巫女さんの神託を波布はありがたく受け取ることにする。
「お互い、幸運を」

握手する二人の横へとバスは滑り込んできた。



乗車口から乗り込んだ彼女は運転席脇に座った。花束と一緒に波布に手をふる。花一杯の窓に波布も笑って応えた。乗車口が閉まり動き始めるバス。何気なく見送っていた波布はギョッとした。

後方の窓のひとつからじっとこちらを見ている女性。
青ざめた顔は確かに。

「…碧。　え？　ええ？」


思考が止まる。呼ぶことも追うこともできず、ただ茫然。
立ちつくす波布を残して、バスはあっという間に小さくなってしまった。