「だからどこだ、彼女は！」

胸ぐらをつかまれ、端から見れば喧嘩一歩手前の状態で。光はしかしメガネ越しにのんびりと丈を宥めた。
「カメさんとにかく落ち着きぃなって」

似たようなセリフをつい数時間前にも言った気がする。今夜の自分は猛獣ならしの役目を負ったらしい。

「いくら脅されても知らんもんは教えられんわ」
「知らない？　そろって携帯の電源切ってたくせに」
丈の手に力が入ると首が絞められる。おいおい殺す気ぃかいな。

「しゃあないやん。ウサコちゃん落ち込んどったし。レディーファーストや」

ふっと力が抜けて、丈の手が離れた。脱力したように席に座る丈。光はやれやれと流していた店員を呼ぶ。
「水割り二つ」

光の注文に丈は同意も異議も申し立てず、椅子の背にもたれると眼を閉じて、開いた。


外はまだ北風が優位だが、居酒屋の中は人の熱気がこもって暑い。天井辺りへこもった熱をゆっくりファンがかき混ぜている。ぼんやりみている丈は、いつもの覇気などまるで感じられない。かなりへこんでいるのが光にもわかった。


「ほんとに知らないのか」
「今頃どっかのホテルや」
「ホテル？」
即座に身を起こす丈に光は笑いをこらえる。
「葵と一緒や。まだカメさんにあう勇気がないんやて」
ホッとしたのかガックリしたのか、丈は勢いでテーブルに寄りかかってしまった。


「おまちどうさま。水割りです」
鼻先に置かれたふたつのグラス。ひとつを一気に飲み干す丈。光が鼻に皺を寄せる。

「酔っぱらいの面倒みるんいややで」
「うるさい」
「さすがにカメさんも落ちこんどるやん」

「自己嫌悪で深海魚になりそうだ」
「アンコウは肝が美味いし」
睨まれてもニヤニヤ笑うだけの光に丈がげんなりした顔。

「なんでわざわざ提灯つけてるおめでたい奴を選ぶんだ」
「暗うなりっぱなしなんて、カメさん無理やし」
「…ほめてないだろ」
「あたりまえやん」

プッと吹き出した丈は、ようやく笑みを浮かべた。いつのまにか追加されている２杯めとつまみがテーブルにのっている。

「当然カメさんの奢りやな」
「勝手にしろ」
「おおきに」
箸も握らない丈に対して、光はひとりでせっせと皿をあけていった。


「どこまで聞いた？」
「初めから終わりまで」
「三人がかりでこきおろしか」

「ウサコちゃんは何も。葵がその分、滅多切りしとったわ」
「そうか」
「いわくがある人に指輪頼むんは無謀やな」
じゃがバタをいかにも美味そうに口へ放り込みながら、光が突っ込む。

「……妹だと思ってたからな。あっちもこっちも泥沼だ」
「あっちも？」
「彼氏がいるってのに何考えてるんだか」
「はぁー……未練やろか」
断片だけで推測する光に、丈がぼやく。


「美人で頭いいくせに家族に遠慮がちで。昔は居場所を探してるような娘だったよ。ようやく独り立ちして仕事も軌道に乗って、良さそうな彼氏もつかまえて。ホッとしたとたんちゃぶ台返しだ」
「んー。甘えられるんはカメさんだけやったとか。ブラコン？　兄離れに苦労しとんやな」

光の指摘に丈の背筋が伸びた。そんな風に考えてなかった。逃げ場所が消えるとでも思ったのだろうか。バカだなあいつ。


思い出すのは遠い日。病院の廊下の椅子で泣きじゃくった華奢な姿。妹ってのはこんな感じかと、兄ってのはこういう気分かと。なんだか甘くて嬉しかったあの感情はずっと、丈の中では揺らぐことはなかった。彼女は違ったのだろうか。だとしても、今の自分にできることはない。


それにしてもブラコンか。じっとみつめると光の箸が止まる。
「なんや？」
「いや。やっぱりおまえは鋭いよ」
「岡目八目」

「そういうものかな」
「で、あっちはどないすんの」
「ほっとく。頭はいいからじき気づくさ。ほんとのことに」

まぁそうだろう。うなずいてから突っ込む光。


「問題はあっちやのうてウサコちゃんやし」
「なんだよなぁ」
ガシガシと頭をかきながら丈が再び天井を仰ぐ。見ている光は何故か楽しげ。

「マジやんなぁ。ふられたらどうなるんやろ」
「バカアホやめろ。縁起でもない」
「こじれたら婚約解」

「喧嘩売ってんのか、源」
「やってこんなカメさん、なかなかおめにかかれんし」
「遊ぶな！　こっちは必死なんだぞ」

気づけばまた胸ぐらをつかまれている。血走った丈の眼が思い出させるのは、昔の自分。手を放した丈は椅子にのけぞる。

「他人事だと思ってるんだろうが、いずれわかる」
「……よう知っとる。カメさんよりずっと」

小声の呟きは丈には聞こえなかったようだ。咳払いしたあと、光は再度言い聞かせた。

「葵に任せて明日まで待っとり」
「滅多切りなのにか」
「ちゃんとウサコちゃんにもつっこんどったから」
しかめ面の丈に付け加える。

「ウサギとカメならカメの勝ちやし。カメさんに全財産賭けたろか？」


グラスを掲げる光に、仕方なくあわせたグラスを丈は一気に呷った。今にも切れそうな忍耐を明日までなんとか伸ばすしかない。

落ち着かない気持ちに逆らうように、週末の居酒屋は活気に溢れまだまだ人が増える気配だった。