シティホテルの部屋は、女性が好むアンティークな家具とシックなファブリックで統一されていた。二つ並んだゆったりした広さのベッドへと身を投げる寸前。

「駄目よほら。ワンピースが皺になるでしょ。バスローブに着替えなさい」

思わず美羽が振り返ったのは、そこにいるのが葵だと確認するためだ。

「はいはぁい。もう、今夜の葵ってお母さんみたい」
「あんたは下の弟並みよ。聞き分けがなくて後先あとさき　顧かえり　みず」
「うう」
反論できない美羽はバスルームへ向った。



ビアホールを出たものの、「帰りたくない」とつぶやく美羽に葵と光が顔を見合わせた。確かにこのまま帰ると丈につかまる可能性大だが、美羽はまだ対応できそうにない。

「実家に戻れば？」
「お父さん、変なところで勘がいいから」

美羽の逡巡は父にある。コトがコトだけに父が知ったらそれこそ婚約解消を言い出しかねない。


「うちに来る？　むさ苦しいのが３人もいるけど」
「そんなの申し訳ないわ」
「ほなウサコちゃん、俺んとこどない…グハッ」

ハートマークを飛ばして誘いかけた光が腹に拳固をくらって絶句した。予想外に綺麗に入って驚いたのは葵の方だ。

「ゲ、ホ。油断したわ」
「バカ」
「ゲホゲホ。…葵、妬いたん？って、ちょう待ち！」

エルボーから裏拳に刺されかけた光が辛うじて逃げる。

「どうしようもない人ね。美羽を誘ったら私じゃなくて亀沢さんに抹殺されるわよ」
「そらあかん」
組み手の如く打ち合いながら漫才をやめない二人。意気消沈している美羽も笑うしかない。

「大丈夫。どこかホテルに泊まる」
「それも心配なんだけど」
「ほな、葵も一緒にお泊まりしたらええやん」

光の提案に葵があっさり頷き、修学旅行の女子高生よろしく、葵と美羽はそろってツインルームにチェックインしたのだ。



風呂上がりの火照りを冷ますようにして、美羽はソファに身を預けた。夜景が綺麗だ。ほんとなら似た風景を丈と見ていただろうにと思う自分が悲しい。

バスルームから出てきた葵はそろいのローブ。自分よりもよっぽど似合うのは出るところが出ているプロポーションの差だろうか。そういえば碧も…あわてて美羽は目をそらした。

どんな眼で葵を見ていたかと思うと不安だ。知り合ってこの方、彼女の容姿を誇らしく思っても妬むことはなかったのに、今はチクチクと痛みを覚えている。

「美羽。どうかした？」
「う、ううん。あの」
急いでごまかそうとする。

「源さん良かったの？　せっかくの土曜の夜をあたし邪魔しまくり」
「気にしないで。あんたが優先」
「でも。二人で泊まるつもりだったんじゃ」

冷蔵庫から取り出したエビアンを片手に、美羽の横に座った葵は、タオルで髪を拭きながらチラと視線だけ走らせる。

「まだ、そういうんじゃないから」

沈黙は、美羽の鈍い思考が結論へたどり着くまで続いた。


「……へ？　えっと、それってつまり」
「泊まる仲じゃないってこと」
「そ、う、なの？」
「そう」
綺麗に丸になった美羽の口元は、タオルを置いた葵がエビアンを飲み干してもそのままで。さすがに葵が苦笑した。

「そーんなに驚くことないのに」
「だ、だって。葵と源さんでしょ。てっきり」
「１０人が１０人そう思ってるかしら。生憎、１１人目なのよね」
「どうして？」
空になったエビアンをテーブルに転がした葵は、夜景を見下ろす窓に歩み寄る。

「まだよく知らないから。お互い」

クルリとガラスを背に振り返る。
「知らない男とは寝たくないし」
「ねっ、寝たく？」
直截なものいいに美羽は赤くなったり白くなったり。

「で、でも。つきあってるんでしょ」
「だから。お互いのことを知るのはこれからってこと」

フッと葵は横顔を見せた。窓の外の煌めきをみつめて。

「ほんとうに知り合うために、時間が必要とは限らないけどね」


何も言えない。丈のことも。葵のことだって自分はほんとうに知っているのかどうか。彼女の横顔を見ているうちにそんな不安すら湧いてきて。だが葵はパッと表情を変えてしまう。


「ほら、今夜はこっちじゃなくてそっちの話よ。白状しなさい」
「な、何を」
「聞きたくないのはわかったけど。見せたくないって何を」

ギクリとした。
どうあっても聞く、そんな姿勢でみつめてくる葵。漏らした一言を聞き流してくれないのだから叶わない。長く息を吐いた美羽は改めて言葉を探した。

「…知ってるでしょ。あたし、社会人になる前もちゃんと男の人とつきあったことないの」
「うん」
「丈さんがほんとに初めてなの。いろんな意味で」
「うん」
「たぶん。葵がとっくにすませたことをようやく経験してるのよ」
自嘲とか悔しさとかでなく、淡々と事実として述べる。

「丈さんがすごく人気あるのは知ってたし。それが過去のことで、今はあたしだけ見てくれてるのもわかってるつもりなの」
「なら？」
促す葵に、しばらく口を閉ざした後、美羽はぼそぼそと呟いた。

「嫉妬も初めてなんだもの」


眉を上げた葵の目が細く和らぐ。うつむいた美羽は気づかないけれど、優しいまなざしは共感を滲ませる。

「最初は茫然としてたし。一人で考えてた時は痛かったり辛かったりだったのに。いざ丈さんの顔見てたら碧さんの言葉が重なって」

思い出しても足が震える。
あの、業火に焼かれるような感情。


「初めてだったの。強烈で醜い。あれがジェラシーなのね。あたしものすごい顔してたと思う。緑色の眼の怪物になった気がして丈さんに見られたくなかった。……見せたくなかった」
うなだれながら美羽はさらに続けた。

「それに。もしかしたらって思った」
「もしかしたら？」
「丈さんはたぶん、気づいてないの。碧さんがずっと彼を想い続けてきたこと。もし、彼がそれを知ったら」

「自信がなくなった？」
「……もともとあったわけじゃないんだけど」

膝の上で組み合わせた手、無意識に親指を上に下に弄びながら心は沈む。結局と美羽はひとりごちた。不安の元はそこだ。丈の気持ちは疑ってないのに、自分が彼にふさわしいと思えない。


「丈さんに嫌われちゃったかな。あんな顔見せたくなかった」

指先の淡い桜色が切ない。


美羽が爪を綺麗に整えるようになったのは婚約してからだ。あまりしないマニキュアも彼にあう前の日はせっせと塗った。もらった指輪に負けないように、少しでも似合うようにと念じて。

その指がふわりと包まれる。見上げると葵が微笑んでいる。
「嫉妬ってのはね、して、されて、一人前よ」
「葵」
「それに。好きな女に嫉妬されて嫌がる男なんていないわよ」

「好きな、女？」
「美羽だって。源さんのこと邪魔にする丈さんを、ちょっとは嬉しく思うでしょ」
「え、あ。…それは」
考えたことなかったけれど。そうかあれも、ジェラシー？


「緑色の眼の怪物は誰の胸にも棲んでるの。誰もが飼ってる。暴走するのは怖いけど、主人は自分よ。振り回されないでコントロールする術を覚えなさい」

強く語りかける葵の瞳に、美羽は見惚れそうになる。

「…そんなことできるの？」
「できるわ。あんたが今、信じるべきなのは自分よ」
「だから。それができないから」
「違うってば」
葵の手が美羽の肩に置かれた。

「亀沢さんの気持ちとか考えとか、そんなのあんたにわかりっこないのよ。どんなに好きでも、相手と自分は別の人間なんだから。そうじゃなくてもっとわかってることがあるでしょう」
「……何」

「あんたが、白兎美羽が、亀沢　丈って男性を好きだってこと」


まるで、初めて聞いた話みたいに美羽は葵を見上げた。卵を割ったら白身や黄身じゃなくてひよこが出てきたみたいな、驚きの顔。


「好きでしょ？」
頷く。
「大好きでしょ？」
また頷いて唇を噛む。目頭が熱い。集まってくる雫が重い。そっと葵に抱きしめられる。

「自分の気持ちを信じるの。そしたらジェラシーも可愛いペットになるわ。ちゃんとコントロールできるようになる」
涙をこらえてうなずいた美羽は、親友の肩に頭をのせた。


信じる。そうすれば信じられるだろうか。自分も。彼も。
緑色の眼の怪物に負けないで。



美羽の背中を撫でながら葵は窓の向こうに見ていた。かつてみっともないほど取り乱した自分。思い出すのは辛くとも今になれば、あの時の自分は嫌いじゃない。純粋に、まっすぐに、想っていただけ。



美羽にとって散々な１日は、思いがけぬことに安らかな眠りで閉じた。
携帯は電源を入れぬままだったけれど。