碧のマンションには幾度も来たけれど、朝から呼び出されたのは初めてのことだ。

『清高、すぐ来て』

命令口調に入り交じっていた不安がこっちまで焦らせた。アクセルから波布の足は離れず、エレベーターがなんともまどろっこしく。ドアを開けるなり抱きついてきた碧にまた驚かされた。


メリハリのある身体と整った顔立ち。パッと見れば扇情的な外見にもかかわらず、碧はsex　に淡泊だった。行為そのものよりも前戯とか終わった後のたわいないふれあいの方を好むとか、知ったのはあとから。

消極的だが嫌がるわけではなかったし、彼女の身体が与えてくれる快感は素晴らしく、何より波布は碧自身に囚われていたから、彼女を抱くのはいつだってめくるめく喜びだった。


だが今日の彼女は明らかにいつもと違った。昼日中だというのにためらうことなく、解き放たれたようにもしくは追われるかのように、全てを預けて波布に征服されることを望み、誘った。

拒む理由もなく波布は誘いに乗り、彼女に溺れた。やわらかな乳房、細い腰、白い腿。あらゆる部分にマーキングして所有権を主張したがるのは雄としての本能かも知れない。波布の脳裏を掠める男に対しての。


反感をもったままなら楽だったのに、会って話したらそうはいかなかった。亀沢　丈は好意を持たずにいられない男だった。実父とかつてうまくいってなかった頃、不思議な縁から碧がよりどころにして、今も変わらず信頼している彼。

とはいえ碧に対しては、一定の距離を保っているようだし、今の丈には大事な人がいる。　『彼女に出逢った』　あの表情は真実だ。碧もわかっている。


掴めそうで掴めない彼女の心。あと数歩の距離に、波布のやるせなさは募るばかりだったけれど。待つしかないのだろう。

自分と彼女と。どちらにも向けられない苛立ちを振り切るように腰をつきあげる。暫しの間、波布は碧を啼かせることに没頭した。



目覚めると昼を過ぎていた。互いの体温が温めた毛布の下で寄り添っている間だけは錯覚できる。身体同様、彼女の心も１００パーセント自分に添っているのだと。

少し痩せた。忙しかったり心配事があると、碧は食事を忘れがちだ。急な呼び出しと言い、何かあったのだろうか。目元のうっすらした隈が気になる。

そっとベッドを滑り出るとキッチンへ向かう。案の定冷蔵庫にはろくに食材がない。合い鍵と財布だけ持った波布は近くのスーパーへ急いだ。



温もりに碧は安らいでいた。自分だけに注がれる特別な愛情。感じさせてくれたのは、波布が初めてだった。

出会いは帰国後、店を開くことにしたのがきっかけだ。ジュエリーショップは店内の雰囲気も大事な要素となる。自分が考える店にふさわしい家具を探していた碧。たまたま見つけたソファに一目惚れした。

てっきり海外のものだと思ったのに。扱っている店へ出向いた碧は、現れた自分より若い青年がデザイン・製作したと知って驚いた。どこまでも見通すような澄んだまなざし。

「あの時、君に一目惚れしたんだ」
ずっと後でそう言った波布。


注文を受けた彼は、忙しさの合間を見つけて果敢に誘ってきた。仕事はともかくプライベートは警戒し距離を置こうとした碧だったが。波布は奇しくも、彼がデザインする家具に似ていた。柔らかく温かく碧を包み、いつしか防御壁を乗りこえて。

碧が自分の部屋の家具を全て誂えてもらった日。二人は想いを分かち合った。彼と共にいる時の安堵感は丈にも与えてもらえなかったものだ。


知っているから。
ろくに眠れなかった１週間、無性に彼に逢いたかった。



ピンポーン

久しぶりのたっぷりした眠りは無粋きわまりない音で断ち切られてしまった。眉をしかめた碧は毛布をかぶるが、インターホンは止まない。

ピンポーンピンポーンピンポーン

「…何」


起きあがると波布がいなかった。朝食を作っているのだろうか。健康にうるさい彼は碧と過ごした日は必ず、美味しいご飯を作ってくれる。そういえば冷蔵庫は空だった。買い物に出た彼が鍵を忘れたのかも？

ベッドから滑り出た碧は散らばっていた下着とセーター、柔らかな生地の巻きスカートを身につけ、玄関へ急いだ。


ドアの向こうに碧が見たのは予想外の顔だった。こんな風に冷たくにらまれるのは初めてかも知れない。

「丈、さん」

ものも言わず押しのけるようにして上がっていく。あわてて追いかけながらも、否応なく伝わってくる彼の怒りに碧は怯んでいた。リビングに入るや振り向いた彼の、低い声。
「どういうつもりだ」

わからないフリなどしないが、返事もできずに碧はごくりと唾を飲み込む。彼の声に苛立ちが増す。

「どういうつもりだと聞いてる」
「あ、の」
「俺のいないところで美羽に何を言った。何を考えてるんだ。同じことを俺がしたら君はどう思う」
ビクリと碧は肩をふるわせてから目を見開いた。微かにドアの音と声が。

「碧ー？　起きたのか？」
「丈さ」
「俺が波布君に、碧と暮らしたことがあると勝手に告げたらどう思うんだ」

碧が固まるのと波布が現れるのが同時だった。手にはスーパーのロゴが入った白いビニール袋。丈が舌打ちした。波布は碧を見、丈を睨む。暗い炎が燃え上がる眼。

「……同棲してたのか？」

波布の平坦な声音が碧の胸をざわつかせる。見上げた彼の無表情に焦った。首を縦にも横にも振れない。

「違う」
丈は苛立たしげに訂正した。
「碧の妹が急に結婚したのがきっかけで、碧は親父さんと大げんかしたんだ。留学させてくれって」

碧も昔を思い出していた。





その年正月明け、大学受験と高校卒業を控えていた妹・萌が突然「結婚する」と言い出して家族はパニックに陥った。相手はバイト先で知り合った会社員。１０も年上の彼と家族に内緒でずっと交際していたという。もちろん父も義母も反対したけれど、萌はすでに妊娠していた。

『ばかもん！』
『絶対産むから！　一緒に育てるって決めたの！』

萌も。幸いにというべきか相手の意志も固く、激怒した父も最後は折れた。いずれきちんと式をあげることを条件にして、卒業と同時に籍を入れ萌は新しい生活に入ることになったのだ。


一方、萌の結婚話を機に碧は諦めた夢が再燃していた。去年、大学卒業時にジュエリーデザイナーを夢見て碧は留学を望んだ。だが父の反対で断念。未練を振り切るようにまるで違う職種に就職したものの、不完全燃焼のまま夢は燻り続けていた。

萌の妊娠・結婚には碧だって驚いた。何がそんなに萌を急がせたのか。生母との別れも記憶にない妹は、義理の母にも、父に対しても、自分のようなこだわりは見えず。屈託なくなついて甘えていると思っていたのに。

初めて聞いた妹の本音は、記憶の片隅にこびりついた喪失感だった。

『おかしいよね。お姉ちゃんみたいに何か覚えているわけじゃないのに。ずっと叫ぶ自分の声がするの。おいてかないで、そばにいて、忘れないでって』

二度とそれを味わうまいと必要以上に今の家族に媚びてきたと萌は述懐した。そんな自分が嫌で高校に入ると家から逃げていたのだと。

『やっとみつけたんだ。全部預けられる人。全部、受け止めてくれる人。彼となら、この子と３人で頑張れる』


想い合う相手をみつけ、父の反対を押し切った妹が羨ましかった。同時に、妹がいなくなった家がどうしようもなく不安だった。これまで自分は、彼女を媒介にして家族とつながってきたのだと自覚する。

このままここでやっていけるだろうか。夢も追わずに唯々諾々と流されていいのだろうか？


萌の結婚が決まった直後、碧は父に訴えた。
『留学させて』

ようやく事が片づいたと思った矢先だ。怒鳴る父。驚く萌。どちらにもつけずに困惑する義母と末の異母妹。

家は再び大混乱となったが。今度ばかりは碧もやすやすと退かず。幾度も口論を繰り返した末に碧は家を飛び出して、転がり込んだ先が丈のところだったのだ。



ひとつ年上の丈は当時、入社２年目。就職と同時に一人暮らしを始めていた。仕事が面白くて仕方ない様子であまり逢うヒマもないが、それでも連絡すると必ず話を聞いてくれた。決して異性としてでなく妹として。わかっていても、碧が最後に頼るのは彼以外いなかった。

呆れながらも丈は碧を追い出すことはしなかった。丁度仕事に忙殺されている時期で、ろくに帰らないからと碧をそのまま置いてくれた。

『でも、おまえの考えは甘いと俺も思うぞ』

丈は留学に関しては父と同じスタンスだった。甘い夢だと言われて傷つき碧は迷ったが、諦めて過ごしたこの１年が碧を少なからず強くした。費用はこつこつためてきた貯金でまかなえる。何よりも、これまでの自分から抜け出したかった。全ての殻を壊して飛びだちたい。どうしても。


父と和解せぬまま、とうとう仕事をやめて渡欧の準備をはじめた碧。すると、しばらくぶりに帰ってきた丈にこっぴどく怒られてしまった。

『全部投げて逃げる気か。萌ちゃんの式は？　親父さんや義理のおふくろさん、亀沢の母さんの気持ちはどうなる。この先、異国でひとりやっていく覚悟があるならどうして、ちゃんと向き合って親父さんを意地でも説得しようとしない。そんな奴の片棒かつぐのはごめんだからな』





「一緒に暮らしてたって…居候していただけなのか？」
ぼそりと聞いた波布に丈が返す答が、碧にはわかっていた。

「血のつながりがあろうとなかろうと。俺にとって碧は妹だ。昔も今も」





丈のところに居た間、たまに帰ってくる丈が同じ部屋で眠ることは何度かあった。朝食を一緒に食べることもあったけれど。碧を見つめる眼に、触れる手に、決して妹を超える熱を感じることはなかった。

碧がどれだけ意識し、切望しようと温度差は縮まらず。手に入らないものを身近に見つめ続ける辛さだけが募って。彼にとって自分は異性ではないと思い知らされて。

それでも。丈の存在はあまりにも大きく大切だったから、唯一の拠り所を無くすことを思えば、それ以上の賭けは碧にはできなかったのだ。


丈の部屋を追い出されて碧はようやく腹を据えた。彼が言うことは正しい。わかっていたから家に戻り父と向き合った。

『お願い。どうしても行きたい。行かなきゃならないの。私自身のために』

最後まで何も言わずに聞いた父は、唸るような声でようやく言った。
『約束しなさい。必ず帰ってくると』

もうひとつ、帰国後出店を考えるなら資金は自分に頼れ、それが条件だと言われて碧は父に頭を下げた。初めて望みを自ら勝ち得ることができたのだ。


父の承諾を得た夜、丈に電話で報告すると、優しい声が返って泣きそうになった。
『やったじゃないか。これからが勝負だな』
『うん。必ず一人前になって見せるわ』
『いつか、俺にも作ってくれるか？』
『丈さんの彼女に作ってあげるわよ』



本当はそんな人が現れるなんて想像もしていなかったのだ。去年。突然店にやってきた丈の、とろけるような顔にどれだけ驚かされたか。

『指輪が欲しいんだ。３月の誕生石を教えてくれ』


不安になった。自分にだって波布がいるのに。大事に想ってるのに。どうしてこんな、足元が崩れるような、確かな拠り所が消えて無くなるような心細さ。

「好きだったの」
ぽつりとこぼした碧の言葉に、丈が眼を見開く。
「結婚なんかあり得ないって言ったくせに」
驚きへと変わる表情。
「いつまでも。一番近くにいてくれると思ってたのに。どうしてあんな平凡な人」
「よせ」

黙っていた丈が遮る。
「彼女を、自分をおとしめてそれでどうなる。彼とのことは？」
逃げていた現実。波布の顔を見た碧はうなだれた。



深くめり込むような失望を波布は味わっていた。　『好きだったの』　その言葉に打ちのめされる。自分の想像以上に碧が丈を想っていた、今も想っていることに。

ついさっき交わした熱は何だったのか。丈の婚約者にまで言い募るほど碧は追いつめられているのだろうか。なら彼女にとって自分は一体。ぶすぶすとジェラシーで胸が黒く焦げそうだ。三人の間に横たわる沈黙。



「たとえ碧でも。これ以上美羽に何か言ったら許さない」
丈が必死に自分を抑えているのが二人にもわかった。
「指輪。できないならそう言ってくれ。考え直す」
「丈さ、ん」
「連絡は早めに頼む」



丈が出て行ったドアの締まる音が波布にもはっきり聞こえた。２，３歩追いかけ立ち止まった碧の、うなだれる背中が無性に痛い。自分ではない誰かを求める彼女など見たくない。

波布はゆっくりした足取りで後ろから彼女を追い越した。

「…清高」
「帰るよ」
碧の顔を見ない。見たらきっと帰れなくなるから。
波布は靴を履き扉を押した。

「きよたか」

子どものような声に後ろ髪を引かれる。求められて置き去りにするのは初めてだ。けれど今はここに居られない。

慣性に逆らうことなく背中で閉まったドアが全てを遮断した。手に下げたビニール袋、作るアテのなくなった野菜の重みが空しかった。





丈を怒らせ波布を傷つけ、一体自分は何をしたかったのか。誰を望んでいるのか。

碧はひとり、虚ろに立ちつくした。