「何考えてんのよ、あの男は！」

ドンと置かれた生ビールのジョッキは空だ。泡だけが底近くにへばりついている。


美羽の向かい、光の隣で取っ手を握りしめる葵の勢いはビールのせいではない。ジョッキの１杯や２杯、いや５杯１０杯で酔う彼女ではないのだ。理由はここにいない親友の彼氏に対する怒り。光はやっぱりジョッキを手になんとか宥めようとする。


「まあまあ葵。落ち着きぃなって。カメさんはまだ何も言うとらんやろ」
「そういう女に結婚指輪を作らせること自体が無神経なのよ！」

今の葵は頭から湯気を立てるという表現がぴったりだ。ヤカンそっくり、などと言えば間違いなく蹴っ飛ばされるだろう。過ぎる思考が口から漏れぬよう、光はビールを飲み箸を動かすことにする。



土曜の午後、美羽から突然かかってきた電話。葵の激昂と光の同意で、デートの約束は三者会合へあっさり切り換えられた。ビアホールに集ったのはにぎやかな方が事情を聞きやすいと思ったからだが。

当の美羽はというと、グレープハイのグラスをカラカラと回してぼんやりしている。日頃が穏やかな彼女は、感情を爆発させたあとの虚脱状態に陥ったようだ。グラスのそばに置かれた携帯は電源がオフされたまま。光にはそこに溜まっていく丈からの着信が見える気がする。


ついでに葵と光の携帯もオフされているのは、美羽の交友関係が丈には筒抜けだからだ。常日頃の溺愛ぶりを知るだけに光は丈を気の毒に思う。難儀やなぁ。だが葵は公平に容赦ない。


「言わせてもらえれば美羽、あんたもあんたよ」

のろのろあげた美羽の眼はいつもと別人、死んだ魚みたいだ。さらに苛立つ葵に光がヒヤヒヤする。


「何度も言ったわよね。亀沢さんはエベレスト並みに浮き名を積もらせてきた人だって」
「マジ？　そらすごい。祀って拝めるやん」
ついついチャチャを入れた光は、必殺の目付きに固まる。

「黙ってて」
「…かんにん」
首を竦める彼に一瞥だけくれて、葵は続ける。


「つまり碧って人がもし彼女だとしても、エベレスト並みに積もった浮き名の一片でしかないの。過去よ。で、彼が今見てるのはあんただけ。わかってるでしょ。どうしてちゃんと話をしないの。なんで逃げてくるのよ」

聞いていた光は感心する。さすが葵の上。怒っていても分析と指摘は冷静沈着だ。睨まれうつむきながら美羽が小さく反駁する。

「だって」
「だって？」
「聞きたくなかったし、……見せたくなかったんだもの」
「はあ？」
後半は聞き取れぬほど小声の美羽に、葵の声がまた半音上がる。

「葵なら聞きたいの？　源さんの昔の話」

逆襲をくらって詰まる葵を光が面白そうに見た。見返す葵はしかし、光の笑みに眼を細めただけ。ブレのない声を美羽に投げる。


「あたしたちと一緒にするのは間違ってるでしょ。あんたと亀沢さんは結婚するのよ」
ハッと、美羽が顔を上げた。

「いつでもやめられる軽いつきあいじゃなくて、この先の長い人生を一緒に歩く約束をしたのよ。今日も式場に行って来たんでしょ？　それとも何。婚約解消するわけ？」
「ちょ、ちょい待ち、葵。そんなん軽々しゅう言うことやないて」
あわてる光に葵は頓着しない。

「そう軽くない。現実はおとぎばなしじゃないもの。結婚すればめでたしめでたしなんてことあり得ない。毎日いろんなことが起きるわ。そのたびに逃げるつもり？　あんた今までたくさんの人のろくでもない話をいっぱい聞いてあげたくせに。一番大事な人の話を聞かないなんてどうかしてる」

黙りこくった美羽の視線が葵から携帯へ流れた。誰を思っているかは一目瞭然。葵がじっと見守っている。


二人をよそに、ビールを口に含んだ光が胸にひっかかった何かを探る。葵の言葉が。

『あたしたちと一緒にするのは』
『いつでもやめられる軽いつきあい』

確かにそうだ。婚約した二人と自分たちは違う。なのに。認めることに抵抗がある。自分たちがそんな吹けば飛ぶようなつきあいだなんて。

『葵なら聞きたいの？　源さんの昔の話』

昔、か。葵の昔なら知りたい。そう考え始めている自分。美羽を見ている葵の横顔にもどかしさを覚えながら、光にも浮かんでくる自問がある。


自分は葵に、昔の話をすることが出来るんだろうか。


逃げるように視線を反らした光は、ジョッキのグラスを煽ることでごまかした。胸底に押し隠しているギザギザした過去の苦みを。