丈が自宅マンションに帰り着いたのは木曜の深夜だった。

シャワーを浴びて部屋着に着替えると冷蔵庫を開ける。いかにも独身者の品揃えは水と缶ビール、ウーロン茶に野菜ジュース。不規則な生活故に食材は皆無だ。

何かと外で飲む機会が多いので家での酒は週末と決めているが、今日は迷わず缶ビールをとった。３５０ミリリットルじゃ水と変わらない。一気に流し込んでようやくひと息ついた。


先週末から出張で今夜戻ったばかり。丈は開発部だが、トラブルで納品先に呼びつけられることは多い。現場ならともかくお偉いさん相手だと頭が固くて困る。杓子定規ですむことばかりではない。おかげで手間取ったが、なんとか今週末は休めそうだ。


ローテーブルに放り出してあった携帯を手にソファに座った丈。二つ折りを開いて慣れた操作でデータフォルダから呼び出した画像は、照れくさそうに笑顔を向ける美羽。入れてある画像では一番気に入っているシャメだ。

待ち受けにしないのは気恥ずかしさではなく、他人に見せるのが勿体ないから。これを見るのは自分だけでいい。それくらい惚れている、彼女。



昔から、何故か女性は丈に好意的だった。彼が女性に対して距離を置こうとしなかったら、相当いけ好かない男になっていたことだろう。もっとも置こうとしていたのはあくまでも心理的距離のみ。同性からみればやっぱりいけ好かないかもしれない。

義理の母のおかげで女性には敬意を抱いていたから、ろくでなしになるのは免れている。二股かけたり弄んだりしたことはないものの、長続きをする関係を望まなかった彼に対して、つきあった彼女たちは不思議と寛容だった。別れてすら。

今の会社に入社後はもっぱら仕事に比重を置き特定の相手を作らなかった。葵にはずいぶん粉をかけたが、期待していたのは大人のつきあいだけ。まさかこんな風に、ひとりの女性に文字通り身も心も囚われようとは。

かつて思考の片隅にもなかった結婚式へまっしぐら。なのに後悔のかけらもない。それどころか美羽と乗っているのが馬車だとするなら、御者のムチを奪って馬をもっと急かしたいほど。昔の彼女たちが知ったらなんと言われるだろう。


碧を思い浮かべた。悪行の数々も知られている妹のような存在。仕事も順調らしいし、いい相手も見つかって、ようやく肩の荷を下ろせそうだと思う。波布ならきっと。お互い異性を見る目は確かだったなと苦笑する。


出張の間も美羽とはちゃんと連絡を取り合っていた。夕べも遅くに携帯で。

『出張、結構かかりましたね』
『ものわかりの悪いお偉方がいてさ。どんどんややこしくしてくれて参ったよ』
『丈さんが参るなんてよっぽどですね』

声音がひっかかった。いつもの彼女なら笑いそうなのになんだか静かで。そういえばこのところずっと、こんな感じか。


『美羽』
『はい』
『どうかしたのか』

『どうかって？』
『やけに静かだな』
『そ……んなことないです』


微妙な間が気になった。美羽は負の感情をあまり表に出そうとしない。弟の事故以来、意図しなくてもクセになっているらしい。丈にすれば壁を作られるようで苛立ちになる。それより何より。

電波だけの距離がもどかしい。数日会えないだけ拍車はかかる一方だ。逢って抱きしめて口づけてそれから……１０代のガキか。手のひらで顔をおさえて丈はうめく。

『丈さん？』
『いや。逢えるのは土曜だな』
『はい』
『辛抱溜まらん』
『何ですかそれ。源さんみたい』


笑い声で終わった昨夜。今日は連絡するヒマがなく、すでに時刻は０時を回っている。メールにしておくか。

明日は新製品の打ち合わせで別の取引先へ直行だ。仕事は好きだしやりがいもあるが、忙しすぎるのは考えものだとしみじみ思う丈だった。



土曜日は温かな小春日和だった。ふたりが待ち合わせたのは都内某有名ホテルだ。

正月明けから週末はずっと、式場の下見に追われてきた。思っていたよりも時間がかかった理由はなんと言っても美羽の父・温あつし　にある。娘の式の先延ばしを狙ったあの手この手。美羽は笑って否定したが。

『ここは狭い』
『広すぎる』
『メニューが気に入らない』
『場所がどうも』

丈にすればそうとしか思えない。ぼつぼつ理由も尽きる頃、最後がまた奮っていた。

『風水が悪い』
『いつから風水なんか信じるようになったのよ！』

さすがに美羽も我慢を切らせ、美羽の母と丈は横で腹を抱える始末。あの親父さん、絶対俺たちで遊んでるよな。


ようやく決めた式場だが細かなことはこれから。結婚式というものは想像以上に面倒だ。なのに美羽を思うだけで気持ちは高揚する。しばらく逢ってなかったから余計に。

人が多くてあたりまえのホテルロビー。丁度チェックアウトに重なったらしく、フロントに列ができていた。団体さんか。遮られる視界に眼を凝らし丈はキョロキョロと見回す。ぴったり時間通りの丈に対し彼女は必ず１０分前にはいるはず。

居た。ロビー左のソファに座った美羽が、陽気に似合わぬ厚手のコートを胸に抱くようにしてぼんやりと宙をみていた。いつもなら周囲を興味深そうに観察している彼女なのに、らしくない。焦点の定まらない赤い眼。寝不足だろうか。人をかき分けながら呼ぶ。

「美羽」

ビクッと身を震わせた彼女は、ゆっくり顔を上げた。浮かべた笑みがよく似た別人のようで、眼を細めた丈は記憶を頼りにそのまま見入った。間違い探しのパズルを解くように。

「丈さん？」
「何かあったのか」
眼を見張ったあと、首を振るまでの数秒の間が、彼女の嘘を示している。言い出すのを待つか。たっぷりある時間を楽しもうと丈は決めた。



「何かあったのか」
久しぶりの姿に、尋ねる声に、心が激しく震えて美羽はとまどった。

たかだか二十数年の人生で、彼を想う気持ちは初めての深さ、強さだと自覚しているが。何かあるたび、そのたびに気持ちが大きくなる。限りが見えない。

もっと。　もっと。
さらにもっと。


自分の欲深さ、浅ましさに悲しくなる。こんな自分を知ったら驚き、たじろがれるに違いない。今も、じっと見つめる彼から逃げまいと虚勢をはりつつ、祈っているのだ。

どうか見ないで。見つけないで。
自分の中に潜む、緑の瞳を持つという怪物を。


「約束の時間だ。行こう」
「えっ、……あ、はい」
すっと伸ばされた手をつかみながら、ホッとするはずが苦しくなる。彼と出会ってから経験するのは初めての感情ばかりだから。

美羽は時に立ちつくすのだ。
道に迷った子どものように。



チャペルは美羽の希望だった。式にあまりこだわりを持たない自分の唯一出した望みだからと、丈の方が力を入れて探してくれた。漠然としたイメージを具体的にするため、たくさんのパンフレットを集め、インターネットを駆使して。

ついでに映画もたくさん見た。もっぱらＤＶＤかビデオだが、６、７０年代のロマンス映画の結婚式シーンを美羽は喜んだ。特に印象的だったのはダスティン・ホフマンの「卒業」。

「好きな人が奪いに来てくれるなんてロマンチックですね」
いかにも女性らしい感想に、丈はあっさり異議を申し立てた。
「そうか？　式当日まで何やってたんだと思うが」
「丈さんたら」
「俺に言わせりゃこの男は、優柔不断のガキだ。母娘に二股なんか最低だろ」
冷静な意見は確かにそのとおりで、理詰めでは反論できないものの。

「だから映画になるんでしょう？　理想的な男性じゃ始まる前に終わっちゃいますよ」
「そりゃそうだが。これから式をあげる身としては、花嫁をかっさらわれた男の方に同情したい」
「あーなるほど。花婿をさらわれる花嫁がいたらもっときつそう」
上目遣いで美羽はからかった。

「奪還しに来る元カノっていないでしょうね？」
「凄いことサラッと言ってくれるね、婚約者どの」

キスで塞がれた質問。
あの時はただの冗談だったのに。



美羽と丈の視線の先を、今しがた式を終えたばかりのカップルが退場していく。拍手と歓声の向こうで開く扉。そこにもたくさんの人が祝福しようと待ちかまえているのが見える。

「おめでとう」
「お幸せに」
「おめでとうー」

遠目に見る二人は幸せ一杯の顔で並んで踏み出していった。親族達も退場してチャペルは深閑と鎮まる。つい数分前が嘘のように。


「いかがですか？」
ホテルのブライダル担当者が丈と美羽に振り返った。チャペルの見学に来たふたりだが、どうせならと丁度入っていた実際の挙式を少しだけ見せてもらったのだ。誰もいないチャペルとたくさんの人で溢れているのとでは、印象がまったく違った。

「素敵ですね。ステンドグラスが凄く綺麗」
「今日はお天気がよろしかったですから」

このチャペルの売りはヨーロッパから直輸入したという壮麗なステンドグラス。祭壇はもちろん周囲も彩られている。光が差し込むと格別の美しさに美羽は強く惹かれた。

「雨天の場合はガラスの上下に設置しておりますライトで照らし出します。また違う趣の美しさが醸し出されて、喜ばれております」
「なるほど。他にもオプションがありましたね」
「はい。オプションとしましては」

美羽が満足するのが一番とはいえ、決して消極的にならないのが丈だ。聞くべきことは聞く。細かな説明を受けた二人はチャペルのプランに決めた。

「ありがとうございます。招待客名簿はどうなっておりますでしょうか？」
「今作成しています。近日中には」
「招待状の様式は」
「検討中です。これも来週には一緒に」
「よろしくお願い致します。チャペルプランの詳細もどうぞご検討くださいませ。こちらがパンフレットになりますので」

早口で述べる担当者。チャペル内は次の挙式の準備だろう、入ってきたスタッフが掃除を始めている。話を丈に任せ、美羽はひとり祭壇へと近づいた。



十字架を見上げると厳かな気持ちが湧く。同時に高みの存在から見つめられる落ち着かなさも覚える。

この一週間、心は嵐の海のようだった。荒れては凪ぐ繰り返しでクタクタ。丈の出張が有り難いような恨めしいような。夜ごとの携帯では必死に押さえていたけれど。

疑っているわけではなかった。彼は真摯な気持ちを自分だけに向けてくれる。それ以前のことは聞いても仕方がないと思っていたし、いざという時も軽く聞き流せるつもりだったのに。

衝撃の大きさに一番驚いたのは美羽自身だ。彼の身近に相手がいることも困惑を深めた。過去だと思い切ろうにもまた会うことになる。大事な指輪を頼んだ人。同性の自分がうらやむほど洗練された彼女。

思い返すたび胸は波立つ。嵐に変わる。
今は駄目。彼がいるのに。


「美羽」

背後から近づく足音。いつもは心地よく響く声が今は、怯えと求めと動揺を美羽に呼び起こすのだった。



まただ。丈も思った。

ふりかえった美羽の表情が、さっきロビーで見たのと同じ、常とよく似て異なっている顔。真反対の感情がせめぎ合っている眼。

「…担当の人は？」
「今日は終わり。ここはあと１０分で出てくれって」
「そう」
祭壇を飾る花が取り替えられていく。

「さっきの花嫁さん、綺麗でしたね」
「美羽ならもっと綺麗だろ」
「……嘘ばっかり」
いつもなら照れ笑いで頬を染めるのに。静かに否定する美羽に丈は眉をひそめる。

「聞き捨てならないな」
なるべく穏やかに冗談を装いながら彼女のあごを捉え、クイと顔を上げさせた。
「俺が君に、嘘を吐いたことあったか」

短い間をおいて、決然と美羽は丈へ視線を当てた。

「前に。映画を見た時、聞きましたよね」
「何を」
「奪い返しに来る元カノはいないかって」
「ああ。いない」

「ほんとに？」
「何故」
「じゃあ…碧さんは？」
予想もしなかった返事に、さすがの丈も思考が止まった。



開いた口。縮まった瞳孔。
彼の、らしくない狼狽が示す事実。

美羽が胸に当てた手を握りしめる。ニットの胸元がきつい皺になる。碧を思い出すと根底から自信が覆される。


自分にとって彼はひとり、唯ひとりだ。でも、彼にとってはどうなんだろう。自分でいいのだろうか、ほんとうに。もし、碧が今も抱いている思いを彼が知ったら事態は変わるのではないだろうか。

水に落ちた絵の具だ。一滴一滴心に落ち、染みていく不安。一歩下がる美羽に丈が一歩詰める。彼は明らかにあわてていた。


「誰が、いや碧しかいないな。何を言った？」
「何をって」
「碧が彼女だったことはない」
これまで簡単に読めた彼の表情がわからない。今の美羽には彼がわからない。

「そういう関係じゃないんだ。彼女は」
「亀沢のお義母さんの娘さん、ですよね」
「…そうだ」
丈の顔がさらに険しさを増す。

「つきあってたの？」
「違う」
「違う？」

心に淀んだ澱おり　が巻き上げられる。感情の高ぶりを押さえられない。腕にかけていたコートをギュッとつかんだ直後。宥めるように伸ばされた彼の手を、パンと音高く払いのけていた。

「一緒に暮らしてたんでしょうっ？」

驚愕のまなざしで見つめられ美羽は悟った。今、自分の瞳は間違いなく緑色に光っている。醜い、ジェラシーという名の怪物として。


嫌。
見ないで。見せたくない。


振り向きざまに走り出した美羽はバージンロードをまっすぐ、開け放たれていた扉を駆け抜けた。

「美羽！」


チャペルに憧れたのは決してこんな風に、ひとりで遠ざかりたかったからじゃない。映画で走っていた花嫁も、さっきここで祝福に包まれていた花嫁も、この上なく幸せそうだったのに。

追いすがる丈の声を振り切り闇雲に外へと向かう美羽を、そんな思いがさらに苛んだ。