押したドアの向こうに、波布の笑顔があった。


「久しぶり」
「よう」
答える丈の後ろから顔をのぞかせ、美羽も笑顔になる。

「こんにちは。いらしてたんですか」
「聞いてなかった？　碧に呼ばれてね」
「碧さんに？」

丈と首を傾げていると奥から当人が現れる。美羽は見惚れた。

出逢った時から綺麗な人だったが、尖った鋭さが消え氷が溶けたように柔らかい印象になった彼女。


「いらっしゃいませ。お待ちして…いやだ、清高。ここにいたの」
「お出迎えしろって言ったくせに」
「ならちゃんと奥へご案内しなきゃ駄目でしょ」

眉を上げる碧だが波布は磊落に笑う。二人がより打ち解けているのが見て取れた。丈がからかう。

「客を放っていちゃつくなよ」
「まぁごめんなさい。こちらへどうぞ」
何気なく腰に手を回そうとする波布をひとにらみしてから、碧は丈と美羽を誘って歩き始めた。





あれから２週間経った。
事故の翌日はさすがに休んだ美羽だったが、その後は特に後遺症もない。

傷も癒える頃、丈を通して碧から連絡をもらった。指輪のデザインが完成したとのこと。約束の金曜夜、二人は連れだって「gredn-eyed　monster」を訪れたのだ。


見覚えのある応接セットに腰を下ろしたふたり。だがすぐ立ち上がった美羽はソファを検分しながら、向かいに座った波布に聞く。

「これ、波布さんのデザインなんでしょう？」
「そうだけど」
「良い作りですよね。こないだ見て、絶対輸入物だって丈さんに言ったんですあたし」

「そうそう。『ソファにはうるさいんです』ってな。うるさいのは確かだ」
「そっちじゃないでしょう。輸入物って思うくらい良い品だって」
「…ありがとう？」

とびかう二人のやりとりに波布がようやく口を挟む。美羽が苦笑になる。


「でもまさか、あなたが碧さんの彼だなんて」
「君が亀沢さんの彼女だなんてね。世間は狭い」
笑いで返す波布。

「そう、狭い。なのに迷ってたんだな」
丈の突っ込みに美羽がうっと詰まる。

「回転は速いくせにどうやら君は方向感覚がイマイチだな」
「そういえばあの日も駅の場所聞かれたよね。もしかして迷ってた？」
「そうなのか？」
ソファに座ったまま、美羽はいつしか追いつめられた気分。

「二人して駄目よ、美羽さんを苛めちゃ」
波布の隣に座りながら、碧が呆れた声を出した。

「苛めるって碧。子どもじゃあるまいし」
「時々子どもと変わらないわよ」
「きついな」
ばっさり斬られて苦笑いするふたり。持ってきたファイルをテーブルに置いた碧は、背筋を伸ばし居住まいを正して美羽を見た。

「まだちゃんとお礼を言ってなかったわ。事故の時はほんとうにありがとう。それから色々と……ごめんなさい」

頭を下げられて美羽があわてる。

「み、碧さん困ります。あたしは何も」
「あなたにすれば私は決して、好感が持てる相手じゃなかったはずよ。憎まれても仕方ないくらい」
「碧」
眉を曇らせ唇を噛む碧。隣の波布が手を握る。

「僕からも。ありがとう、彼女を助けてくれて」
「…あぁもう」
バンと両手をテーブルに叩きつけた美羽に碧も波布も、丈まで驚いた。


「そりゃあ。そりゃあ色々ありましたけど。正直、碧さんに言われたことで動揺して、憎たらしいとも思いました。悩んだし丈さんと喧嘩もしたし」
「美羽」
丈と合わせる視線。二人だけの了解が行き交う。

「……恋愛に限らず。めぐり合わせってあるんですよね、きっと」
「美羽さん？」
「だから」
向き直った美羽は微笑む。


「碧さんや波布さんに会えて、良かったって思うんです」

切なげな笑みに訝しさは残ったけれど、そう言い切られて碧も波布も安堵した。


「俺とは？」
判りきっている答えを聞こうとする丈に、三人がそろってそっぽを向く。

「肝心の話が遅くなって。デザイン、見てもらえるかしら」
咳払いした碧がファイルから取り出したデザインに、美羽はすぐ丈と肩を寄せて嬉しげに見入った。

波布も一緒にのぞきこんでいるのは、近々彼と碧も必要になるからだろうか。今度、亀沢の実家にも４人で行こう。きっと道江が大喜びだと美羽は思った。


日々思いがけないことが起きるのが人の世だけれど、明日のことは神様しかわからない。めぐり会えた人と手を携えて精一杯進むだけ。できることはただ、それだけ。

にぎやかな笑い声のする店内。扉の向こう、コートはもうすぐ薄手に変わるだろう。春が忍び寄る３月の初めだった。





「なんや、色々あったんやて？」
「ありすぎよ。でも無事で良かった。仲直りも出来たようだし」

同じ日の夜、光は葵と一緒だった。にぎやかなビストロはスペイン料理。週末の夜はギターが奏でられフラメンコのステップが響く。テーブルの下で葵の足が軽くリズムを取っている。

「美羽の事故を実家に知らせるのが翌日になっちゃって。美羽のお父さんがすごく怒ったらしいわよ」
「万事にそつのないカメさんやのに。ウサコちゃんには振り回されっぱなしやなぁ」
「お互い様でしょ。心配することなかったわね」

そう言ってワインを手にする葵の綺麗な指先は、整えてあるけれど長すぎず派手でない色のネイルだ。

「美羽は決めたら、ちょっとやそっとで逃げたりしないもの」


なら、葵はどうなんだろう。こないだから引っかかっている光だが、何がどうなのか自分でもよく見えない。別の話題を振ってみることにする。

「もう３月やん。早いわ」
「そうね」
「葵、ホワイトデーが楽しみなんちゃう？」

きょとんと。真正面からこっちを見る彼女はなんだか、子鹿のような眼だ。バンビ？

「どうして？」
「お返したっぷり」
「ばかばかしい。あなたにだってあげてないのに……」
語尾が立ち消える。綺麗な指で口元を押さえて視線を逸らせる葵に、光はやけに嬉しくなる。

「そやった。俺やてもろてないんやから、他の男にやるわけないやんなぁ？」

だめ押しする自分こそ子どもみたいだが、この際だ。口をすぼませて。葵のほおが少し赤く見えるのは、照明の暗い店内のせいだろうか。

「あ、あなたこそお返しの準備があるでしょ」
「俺？　なんで？　１個ももろうてへんもん」
「ひとつも？」
「せや。当然」
その当然はなんの当然なのか。

「じゃあ、その…」
葵が口ごもった先を、やっぱり光はあっさり返す。

「誰かにケーキ作るなんて高校以来やったわ」
「……どうして？」

カタと。手にしていたナイフを皿に置いた葵が光に聞いた。最近では珍しいまっすぐな眼をまっすぐ光も見つめかえす。


「喜ばせたい気持ちがない相手には、作る気せぇへん」

葵の頬がさらに染まったのは間違いなかった。

「美味かったやろ？」


二人の向こうでフラメンコダンサーが激しくステップを踏む。魅入られたように頷いた葵だったが、光の嬉しそうな笑みに我に返った。再びナイフとフォークを手にしてボソッと言う。

「贈り物に見返りを求めるのは邪道よ」
「手厳しいわ」

もくもくと食べ始めた彼女に光はクスクス笑う。なんだかんだいっても江戸っ子は義理堅い。ホワイトデーは期待できそう、なんて思ったのは内緒だ。


ギターは切なく啼き、ステップにあわせて手拍子が響く。にぎやかな周囲をよそに、二人の間には穏やかな、それでいていつ燃え上がるかわからぬ熾火に似た沈黙が流れ続けた。


待ち受ける未来はまだ、見えなくていい。
どちらもそう思いながら。





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