「グリーンアイドモンスター? ずいぶんと個性的な名前の店ね」
名刺をためつすがめつしているのは葵だ。長すぎず短すぎない爪は淡いパープルで覆われている。
指輪を注文した翌週、木曜の夜。
美羽と葵。二人だけで飲むのは久しぶりのことだ。
「そうなの? あたしよく知らないから。どんな意味?」
あっさり聞いた美羽だが、指先で名刺をもてあそんでいる葵の笑みは意味ありげで、退く。
「知りたい?」
「う、…ん」
「シェイクスピアだったかしら。嫉妬をgreen-eyed monster、緑の眼の怪物にたとえたの。ジェラシーよね」
「嫉妬?」
思いがけない、でも妙に心ざわめく言葉だ。
「宝飾店の名前としちゃどうなのかしら。この人自信家ね」
言い切る葵にあわてて美羽はフォローに走った。
「あ、でも店名って持ち主がつけるんでしょ? 彼女はデザイナーだからつけたわけじゃ」
「…美羽。あんた名刺見てないでしょ」
「へ?」
「ほらよく読んで」
突きつけられた名刺を美羽は改めて注視した。そこには店名と、相馬 碧そうまみどり という名前。それから役職。
『 jewel design & owner 』
「オーナー?」
「亀沢さん、言わなかったの?」
「全然」
穴が空くほど名刺を見つめる美羽に、首を傾げた葵は手元のカクテルグラスに口を付ける。
「何。その相馬って人と亀沢さん、怪しいわけ?」
ギョッと顔を上げた美羽に葵はお見通しという顔をする。
「腹芸なんてできっこないんだから心配事はさっさと言いなさい。大体ね、亀沢さんはあんたに逢うまで、浮き名はそれこそ積み上げて崩れるほどあった人よ。気にしても、キリがないわ」
葵の言いぐさに、エベレストほど積まれた情事の、下敷きにされる自分が浮かんで来る。縁起でもないと美羽はぶんぶん頭を振った。
「でも逆を言えば、あんたと逢ったあとはきっぱり宗旨替えしてるのよね。美羽一筋。だから、心配するような人に大事なリングを作らせるとか、平気で引き合わせるなんてしないと思うんだけど」
葵は密かにもうひとりの浮き名流しを思い出している。あっちならやりかねないかも。
「今の亀沢さんって、あたし相手でも一人では美羽を来させたがらないでしょ。今日も一緒かと思ってたわ」
「来るって言ってたの実は。でも急用が入ったって」
「ほらね。心配ないわよ」
葵の冷静な説得力ある説明に、美羽は苦笑しつつもどこかでホッとしていた。もっとも美羽自身が感じているのは少し違う。
「うん。私も、昔はともかく今の丈さんは疚しいことなんてないんだと思ってる。ポーカーフェイスでもそういうことは嘘つかないし。ただ」
「ただ?」
「彼女。相馬さんがなんだか…ね」
「ふぅん?」
どう言えばいいのかわからず黙って、美羽はカクテルグラスを揺らした。このどこか落ち着かない気分は、自分をみつめる彼女の瞳のせいだ。緑色に光っていた彼女のピアスも。
つかみきれない不安は美羽をなかなか放そうとしなかった。
同じ夜。夜景の見えるホテルの最上階にあるBar で、窓際に座り向かい合う男女がいた。店内の照明は薄暗く、窓の外が鮮やかに浮かび上がる。うっとりして眺める客たち。
「亀沢って人、遅いんじゃないか」
グラスを傾けながら男が聞いた。
「約束は8時だもの。まだ5分あるわ」
「そんなに正確なタイプ?」
「無駄をしない人なのよ」
「彼に。なんて言って誘ったの」
「ただ、逢って欲しい人がいるって」
男から視線を反らした女は、ワイングラスにルージュを残す。
「誰かを紹介するのって初めて」
「ほんとに?」
男を見て微笑んだ女の、視線が後ろへ移った。男の神経が背後へ走る。案の定、彼女を呼ぶ声がした。
「碧みどり」
自分と同じ呼び方に苛立ち。彼女の笑みは自分のためか、現れたもう一人のためか、男にはまだ確信がもてなかった。
「丈さん」
碧の笑みは丈にとっていつも通りだ。
美羽との予定を反古ほご にするのは残念だったが、碧とは古いつきあいだし、今回指輪も頼んでいる。何より彼女が、男を紹介したいと言い出したのは初めてのこと。どんな奴なのか。ふさわしい相手であって欲しい。興味半分・心配半分でやってきた丈だ。
ゆっくり近づくテーブル。背中を向けていた男が立ち上がり振り向くと丈の瞳が大きく広がった。背が高く優しげだが弱くはなさそうな顔立ち。唇が厚ぼったい。そこも好みか。細身でも強靱そうな体つきもまた然り。だが。
意外だった。年下とはね。
「紹介するわ。こちら波布さん。波布清高はぶきよたか さん。清高、こちら亀沢丈さんよ」
「波布です。初めまして」
「亀沢です」
握手しながら互いを見定めるのは、男なら誰もがやることだ。怯む様子のないまなざしに、度胸はありそうだと思いながら丈は席に着いた。丈の水割りが届いたところで、乾杯しようと碧が言い出した。
「乾杯って、何に」
「今夜の出会いに、って言いたいところだけど」
碧は、冗談だろと言う顔の男たちを見てふふっと笑う。
「亀沢さん、近々ご結婚なさるのよ。祝ってあげなきゃ」
「結婚?」
落ち着いていると思った矢先、えらく素っ頓狂な声をあげた波布に、丈が驚いた。波布の方がもっと驚いているようだが。
「そうなんですか?」
「ええまぁ」
「そりゃ……おめでとうございます」
「おめでとう」
二人にグラスを掲げられ、あわてて丈もそれを受ける。
「ありがとう」
「結婚なんてしないって言い切ってたのにね」
碧には昔を知られているから苦笑するしかない。
「悪かったな。ほんとにそう思ってたんだ」
「気が変わったってわけ?」
「いや」
からかうような碧に丈の答えは短かった。
「彼女に、出逢った」
手元のグラスをみつめて、浮かんでくる面影に丈は微笑む。碧が表情を曇らせたのも、二人を見比べていた波布の顔にさした影も、眼中にはなかった。
「彼女に言わせるとあなたは、兄のような人、なんだそうですよ」
グラスから眼をあげた丈は初対面の男を鋭く見返した。含みのある言い方を真っ向から受け止める。
「あぁ。だから君は俺のメガネにかなわないと困ったことになる」
「どんな?」
挑戦的な彼に、注いでいた丈の眼がふと細まった。
「それ。碧が作ったものか?」
あっさり看破されたのが悔しいのか、眉をしかめ波布は頷いた。
胸元で光るタイピンから、丈の視線はくるりとライトの如く碧へ回される。彼女がわずかにほおを染めたのを見逃さなかった。
『丈さんより素敵な人をつかまえて、作ってあげるんだから』
フッと浮かべた笑みに波布は意外そうな顔。
「ふぅん。きみ、波布君? 仕事は何を?」
「彼は家具デザイナーなの」
碧が波布より先に応える。肩を竦めてそれでも波布が名刺を差し出した。受け取った丈も名刺を返す。
「Funiture Design Studio Kiyotaka Habu」
スタイリッシュな文字だ。
「ほら、うちの店の応接セット。覚えてる?」
座り心地のいいソファを丈は思い出した。美羽があの後繰り返し言ってたっけ。
『あのソファ、すっごくいいものですよ。あたしソファにはうるさいんです』
根拠のない彼女の主張を散々からかって遊んだけれど、丈もそう思ってはいた。
「あれか。てっきり外国製だと思ってた」
「誉め言葉と思っていいですか」
キラリ。鋭くなった波布の目付きに丈は認識を改める。骨がありそうだ、こいつ。
「私のマンションの家具もお願いしたの」
「マンションの?」
「惚れ込んじゃったんだもの」
省略された目的語を確認したいのは波布の方か。あえて丈は会話の方向を変える。
「どうして家具のデザインを」
「父が、家具職人で」
「へえ。出身はどこなんだい?」
「信州の…」
そこから、不思議と会話が弾んだ。美羽とつきあうようになって、丈は知らずに人の話を聞くコツを覚えたようだ。しぶしぶ話していた波布だが、尽きない興味で問い返す丈に次第に打ち解け、やがては碧そっちのけで話し込んでいた。あ然とした碧の声が耳に入らない。
「ねえ」
「…ですよね。僕もそう思います。ヨーロッパの広い家に合わせた家具を、日本の住居にもってきても似合わないんですよ」
「だが、ああいう材質、手触りや表情が日本人受けするのはわかるよ。どこか通じるところがあるんだ」
「そう、そうなんですよね。だから」
「ねえ、ふたりとも」
「僕のスタイルは、和をもう少しモダンへずらして、テイストによりヨーロッパ調を取り入れて」
「そりゃ線引きが難しそうだ」
「おっしゃるとおり」
「ねえってば!」
らしからぬ大声に振り向くふたり。まるで似てない顔が似て見える。
「意気投合はいいけど、無視しないでくれる?」
「なんだ。すねてるのか」
「丈さん。子どもに言うみたいに言わないで」
「子どもだろ。なあ?」
丈に同意を求められて波布がつい頷くと、碧が睨む。
「でも珍しい。碧がすねるなんて」
「そうか? 意外と幼いんだよこいつ」
丈に笑いかけられて波布は笑みを返したが、そこには複雑な何かが混じって見えた。
11時過ぎに席を立った三人。レジで支払おうとした丈はふたりからそろって睨まれた。
「誘ったのは私なのよ。恥かかさないで」
「それを言うなら男に恥かかさないで欲しいな、碧」
「……俺はどっちに礼を言えば良いんだ?」
揉めている彼らを向かいの店先から見ている男がいた。
「なんやカメさんやん。女連れか? ちゃうな男連れ? アホな」
ぶつぶつ言っていた光だが。
「みなもとー、行くぞ。次だ」
「へいへーい」
接待は営業の宿命だ。丈をチラとみやってから光はあっさりきびすを返した。残念。おもろそうやったんやけど。でもネタにはなるな。光は葵のしかめ面を思い浮かべてあれこれ考えている。
ここで別れる丈のため、タクシーを探す波布を見ながら碧が聞いた。
「…どう思う?」
「人の意見より自分はどう思うんだ」
微笑みで返事に代える碧に、さらに問う丈。
「俺が反対したらやめるのか?」
「そうじゃないけど。……意地悪言わないで」
いつもの自信に溢れた彼女ではない、どこか甘えた様子も丈には見慣れたものだ。
出逢った時は高校生だった。突然泣き出されて驚いたのを思い出す。甘えるのが苦手で人前で泣くことなどまずないと、知ったのはあとから。以来ずっと素のままの顔を見せる碧は、丈にとってまさしく、妹。
「俺は気に入った」
「私の相手としては?」
この場にそぐわぬ真剣さを感じた。丈はそれを波布に対する期待と受け取ったから、答えた。
「いいと思うよ。おまえの親父さんも、母さんだって喜ぶだろう」
碧の表情は抽象画のようだった。求める返事を与えたはずなのに、浮かんで消える様々な感情。喜び、安堵、哀しみ、期待、失望。
失望?
「どうした」
丈の訝しげな声に全ては跡形もなく消える。魔法の如く。
「良かった。丈さんのお墨付きがもらえて」
「碧」
「つかまったぞ」
ようやくタクシーを止めた波布が路上から呼んでいる。まだとまどっている丈の背中を碧が押した。
「今夜はありがとう、来てくれて」
「いや。俺の方こそ楽しかったよ」
「亀沢さん、話の続きを是非。今度誘っていいですか?」
「清高ったら。私より丈さんが気に入ったんじゃない」
「そういうわけじゃ」
軽口をたたき合うふたりに少し安堵して、それでも丈は念押しした。
「碧。何かあったらちゃんと連絡しろよ」
「わかってる。ありがとう。お母さんによろしくね」
「あぁ」
走り去るタクシーを見ながら、波布は不思議に思って聞いた。
「お母さん、て」
「丈さんのお母さん」
「知ってるのか?」
「私の、実の母なの」
「は?」
「兄みたいなっていうのも、あながち嘘ではないのよ」
碧の横顔に浮かぶ憂い。
追いかけてずいぶん経つのに、いつまでもつかまえきれない、女。
「碧」
「ん?」
「僕と、結婚しないか」
弾かれたように振り向く彼女を、波布はじっとみつめた。
勝算は読めない。ガチガチのつもりで大穴狙いかもしれない。ギャンブルが嫌いな自分にとって、人生最大の賭けになりそうな気がした。
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