迷った。
表通りはどっちだったろう。方向すら定かでない。途方に暮れた美羽は、ビルに縁取られて多角形の冬空を見上げる。慣れない道はどうも苦手だ。やっぱり丈と待ち合わせれば良かった。

取り出した携帯が示す時刻。まだ時間はある。もう少し探してみよう。とりあえず来た道を戻るため振り返った美羽は、今にも通り過ぎようとしていた青年にぶつかってしまった。


「っ…！」

驚いて立ち止まった相手を美羽は見上げた。長いウールのコートは柔らかそうな黒。淡い茶のネクタイが効いている。背が高いのでちょうど美羽の目の前に光るタイピンが変わったデザインだ。何の形だろう。ついじっと見てしまう。


「君？」

声をかけられてハッとする。どう見ても怪しい自分をなんて言えば。


「もしかして迷ってる？」

地獄に仏とはこういうことだ。最近これほどホッとしたことはないかも。美羽が嬉しげに大きく頷くので、逆に相手が面食らっている。


「はいそうなんです。よくわかりましたね？」
「……路地を散々行ったり来たりした挙げ句、空を見上げて立ちつくす」
「どうしてそれを」
「そこ」

指さす先、奥まった路地にオープンカフェがあった。つまり。


「ずっと見てたんですか？」
「見えたんだ」

無愛想な答えだが相手は責められない。赤い頬をおさえ照れ笑いする美羽に、相手が初めて態度を和らげた。


「どこへ行くの」

なんて有り難いお言葉。後光が射しそう。


「あの。ジュエリーショップに」
「ジュエリーショップは多いけど？」

困ったように顔をしかめる。ほんとにイケメンだ。丈には負けるけど、じゃなくて。


「グリーンアイドモンスターっていう」

猫だましでもかけたかのように相手の眼がパッと見開いた。あれ。


「ご存じですか？」

じっと美羽をみつめた相手は、いきなり手首をつかみ歩き出した。


「あ、あの」
「こっち」

ずんずん歩く彼は大きな歩幅。丈みたいだ。美羽は小走りで転ばぬよう必死でついていく。何処をどう歩いたのか、彼が止まった。隣で美羽はハァハァ息を切らしている。


「あそこ」
顔をあげると、数メートル先の小さな店を指さしていた。あれが？
「じゃあ」
あわてて美羽は振り返る。


「あ、ありがとうございました。あの」
美羽の声に彼が立ち止まった。
「すてきなタイピンですね」
「…ありがとう。彼女からの贈り物なんだよ」

さっきまでとはまるで違う、甘く嬉しげな笑みを残して彼は立ち去った。





暖かい冬だと思っていたのに、急に冷え込んだ週末だった。このコートを身につけるのは初めて。大きめだけれど丁度良かったと美羽は思う。流行にこだわらないデザインとしっかりしたつくり。道に迷っても身体を冷やすことがなくて有り難かった。改めて店に向かい合う。

「Green-eyed　Monster」


大人っぽいシックな外観の店はウィンドーもなくジュエリーショップには見えない。店名も英語で小さく、案内されなかったらここだと確信できなかっただろう。

「緑の眼の怪物」

一体どんな意味？　美羽は首を傾げる。


細道にもしゃれた店が隠れている青山近辺。どちらかといえば籠もりがちな自分に引き替え、丈の方があらゆる面で情報通なのはわかっていたが、こんな店まで知っているなんて。一体誰と来たんだろう。天然な美羽もさすがに邪推したくなる。


待ち合わせ時間まであと１０分。時間を守るのはどちらもそうだが、きっちりに現れる彼に対して美羽は大抵時間前には着いていた。店に入ればいいのだが、あまり宝石類を多く持っていない、つまりは買うこともない美羽にはこういう店は敷居が高い。どうしようと思った時、向こうから歩いてくる女性に目を奪われた。


さっきの男性といい、お洒落な場所にはお洒落な人種が集まるのだろうか。大きくウエーブのついた薄茶の髪。メリハリのあるボディを晒すでも隠すでもないデザインスーツに包んで。低くない身長なのに細く高いヒールで堂々としている。

いくつぐらいだろう？　自分があと数年経てもこんな女性になれるとは思えない。素直に感嘆し見惚れている美羽へチラリと視線が流される。女性の眼が妙に見開いた気がした。

ふとデジャヴ。誰かに似てる？
耳に光る緑色のピアス。


彼女は立ち止まることなく、かの店に入っていった。そこでまた納得する。ああいう女性に似合うジュエリーの店なのだ。なら自分には？　無意識に後ずさった身体を何かが押しとどめた。


「すまん。待ったか？」

ひょいと見上げれば待ち人来たれり。見慣れた笑顔が寒さを吹き飛ばす。一見いつもと変わらないけれど、寒空に少し汗ばんだ額が急いだことを示している。


「ううん。あたしが早すぎて」

道に迷ったのは内緒だ。あわてて首を振る美羽の片頬が大きな手のひらに包まれる。


「冷たい。中で待ってばよかったのに」
「え、あ、だっ、だって」

人前構わぬこういう仕草はいつになっても慣れない。美羽は真っ赤になってあたふたしている。相手はそれも楽しんでいるから困る。


「大丈夫。このコート暖かいから」
「初めて見るな。…男物じゃないのか？」

甘いまなざしが急に鋭くなる。


「このブランド、男女こだわらないから。それよりほんとにここなんですか？」
「そうだけど。どうして」
「なんだかすごく…高そうだし」

大人っぽそうだし、というセリフは呑み込む。丈は気にもせずまだ美羽の髪を撫でている。


「まだ新しい店だがデザインが評判なんだ。工房もあってね。知り合いがやってるから多分ちょっとは安くしてくれる」
「…よく知ってますね。ジュエリーの店なんて」

後ろは小声になったので聞こえなかったかもしれない。丈は美羽の肩を抱いて促した。
「入ろう」

逆らう理由もなくて美羽は一緒に歩き出した。





「いらっしゃいませ」

涼やかな声とともに迎えられた店内は、外観からの予想を裏切らない上品な造りだった。もしかしたら一見さんお断りの店だろうか、なんて行ったこともない料亭を想像するほど、美羽の日常とはかけ離れている。丈さんて実はものすごいお金持ち？

少しおどおどしながら美羽は、隣で平然としている彼氏を見上げた。


「亀沢と言いますが、相馬さんは」
「伺っております。呼んで参りますのでこちらでお待ち下さいませ」

座り心地の良さそうなソファに誘われると、店員は奥へと入っていった。入れ違いに別の人が紅茶を供してくれたことに美羽は驚いた。見た目にも美しいお茶菓子まで。なんだか買い物じゃなくてティーサロンを訪れた気分だ。香りが入れ立てであることを教えてくれる。


「美味しい」
「ダージリンだね。暖まる」

雑学王である丈は放っておけば紅茶について一席ぶちそうだったが、美羽は質問で機先を制した。


「相馬さんて？」
「さっき言った知り合い。ここのデザイナーなんだよ。あぁ来た」

振り向いた美羽は辛うじて声をあげるのを堪えた。近づいてくるのは紛れもなくさっき感嘆したあの女性ではないか。


「丈さん」

やわらかな声が彼の名を呼ぶ。思いがけず自分と同じ呼び方を聞いて胸がざわついた。


「碧みどり　　元気そうだな」

思わず丈を見上げてしまった。自分以外の女性を呼び捨てる彼は初めてだ。美羽を見下ろす丈は意識もしてないらしい。彷徨った美羽の視線が彼女と出会った。美羽のとまどいを見抜き、面白がっているのがわかった。なんとなく眼に鋭さ。


「悪いな。忙しいのに」
「とんでもない。私にやらせてもらえるなんて嬉しいわ」

そう言うと改まって彼女は美羽に挨拶する。


「ようこそ、初めまして。相馬　碧そうまみどり　と申します。このたびはご結婚おめでとうございます」

名刺を差し出しての軽い一礼。にっこり微笑んだ彼女は二人の前に腰を下ろした。なんとも艶やかだ。


「あ、ありがとうございます」
「丈さんに聞いた時はびっくりしたんですよ。言ってくれればエンゲージリングも作らせて頂いたんですけど、いきなりだったので」

左薬指を確認しながらそう言われて、美羽はいまさら思い当たった。


「ひょっとしてこれもこちらで？」
「丈さん言ってなかったの？」
「忘れてた」

丈はあっさりしたものだ。


「丈さんのあんなに真剣な顔、初めて見ましたわ。指輪をひとつひとつそれこそ食い入るように吟味して選ばれて」
「おい碧」
「いいじゃない。ほんとのことだもの」

きまり悪げに丈が遮るのを楽しんでいる彼女。ふたりの親密さに美羽は居心地の悪さを憶えた。なんだか自分が部外者みたいだ。


「いいから本題」
「はいはい。マリッジリングのご所望ですね。サンプルをおもちしますけど、スタンダードなのは…」


それから１時間ちょっと打ち合わせは続いた。相馬碧は確かに有能なデザイナーのようだ。ベーシックなものと流行りもの、双方をわかりやすく見せた上で、用意していた二人のためのデザイン案をいくつか提示してくれた。

どれも美しいのはもちろんだが、どこか心の機微に触れる部分があるのが美羽を惹きつけた。こんな素敵なデザインをする人なんだからきっと。そんな風に思い始める。


「…承りましたわ。ではご要望をもとにデザインを修正します。お式にはまだ時間があります？」
「花嫁の父が鉄壁でね」
「それも楽しみでしょ。難攻不落って言われた丈さんを落とした彼女のためですもの。ねえ？」

綺麗な笑みで小首を傾げられると女でも悩殺ものだ。見入る美羽に相手はちょっと不思議そうになる。


「美羽さん？」
「あ、ご、ごめんなさい。あんまりおきれいだからドキドキしちゃって」

胸を押さえ深呼吸まで始めた美羽。すーはーすーはー。丈が苦笑する。眼を丸くした碧が営業スマイルを消して本物の笑みになった。やっぱり誰かに似てる気がする。誰だろう。


「お二人にふさわしい指輪にしますわ。楽しみになさって下さい」
「あ、はい。お願いします」
「碧なら大丈夫だ。任せたから。な？」

そう言って美羽に向ける丈の顔はとろけそうだ。いつもいつも赤面してしまう美羽だが、今日は碧の前で余計に気になった。そっと見た彼女はやっぱり微笑んでいたけれど、なにか複雑な表情も混じっているように美羽には思えた。





「疲れた？」
「え？　ううん」
「静かだから」
「そりゃあジュエリーショップなんて慣れないから。緊張はしましたけど」

店を出てからゆっくり食事をとったふたり。今夜は美羽が実家に帰るため、タクシーで丈が送る途中だった。


「やっぱり、俺のとこに寄って行かないか？」

肩を抱き寄せ耳元で囁く丈の声に美羽は全身ゾクゾクさせられる。望む気持ちはもちろんあるのだけれど。


「…どんな顔で帰ればいいのかわからないから。やめときます」
「明日の朝帰るのは？」
「余計に困ります。明日は早いから。お祖父ちゃんち、遠いんですよ」

明日、美羽は父の実家に招かれている。父の両親、美羽の祖父母はそろって９０近いが健在で、孫の縁談をえらく喜んでくれている。


「本来なら俺こそ行かなきゃならないのに、悪いな」
「仕事じゃしょうがないです」
「親父さんはほくそ笑んでいそうだが」

丈のすねた口調に美羽が吹き出す。


「そんなことないです。お父さんも実は丈さんのこと、気に入ってるんですよ」
「だといいが」

肩を抱いていた指がゆっくり首筋をたどって、耳たぶを弄ぶ。身体の中に湧き上がる熱をなんとか消しながら、美羽は困った顔を向ける。


「丈さん」
「はいはい。じゃ、これくらいで勘弁しようか」

手のひらに頬が包まれ持ち上げられたかと思うと、唇が塞がれた。人目があっても軽いキスで終わらせてくれないのが丈だ。クンと美羽の首がしなる。


あぁもう。
恥ずかしくてこの後、運転手さんと眼を合わせられないじゃない。

脳内で膨れあがる抗議もやがて泡と消えた。



碧さんと丈さんってどんな繋がりなんだろう。
夜半、別の問いについても聞かずじまいだったと思い出した美羽。次の機会を待つことにしたものの、彼女の存在は妙に心に重かった。