帰り道は土砂降りだった。
　ハンドルを手に平静な顔だが実は軽い自己嫌悪の丈だ。昔の話は誰にもしたことはなかったのに。横目で助手席を見る。シートベルトをして座席にもたれた美羽はなんだか虚ろだ。隣の窓を絶え間なく雫が流れ落ちている。
　彼女も自分と似たような過去を持ってると丈は確信していた。壁だ。自分に対してというより周囲に対して美羽がはりめぐらせた壁。壊さないと縮まらぬ距離。でも打ち明けろと強要はできない。ジレンマだ。あんな甘い唇なのに。


　考えることに忙しかったせいか高速の渋滞表示を見逃した。気づいた時は後の祭り。フロントガラスで忙しく雨をかき分けるワイパーとは真反対、のろのろゆっくりしか進まない。さしかかったそこではトラックの横にバスが横転していた。
「こりゃひどい」
「・・・え・・・」
　いつしか眠っていた美羽が寝ぼけ声を出す。それも可愛いなんて病気だ。


「起きた？　悪いが事故でちっとも進まない。バスとトラックだ」
「バス・・？」
　ちょうど真横だった。ぼんやり目をやった美羽がひゅっと息を吸い込む。硬直する身体。思い切り後ろへのけぞりバスから顔をそむけ必死で座席に身を押しつける。
「白兎？」
　イヤイヤと振る首。表情にパニックが見えて焦った。


「白兎。どうした」
「や、イヤ。違う。明石。明石？　いやあ」
　シートベルトも忘れて闇雲にここから逃げようとするのを丈は抑え、抱きしめる。ドアロックを確認しながら耳元で名を呼び宥める。
「白兎、おちつけ。何でもない。怪我人はとっくに病院だ」
「助けて。明石、明石を。いや。明石。いやーっっ」


　悲鳴を長くひいて美羽はぐったり意識を飛ばした。あわてたものの呼吸は確かだ。気を失っただけ。ここは高速の上で前の車はもう動き出している。とにかく事故現場から離れた方がいい。できるだけ楽な姿勢で座席によりかからせシートベルトを締め直す。ハンドルに戻った丈は、止まない雨に眼を凝らしてひたすら先を急いだ。





　濡れたタオルの感触に美羽はゆっくり眼を開けた。額を優しく拭う手の先に丈の顔があった。ここはどこだろう。
「俺の部屋。とりあえず休んだ方がいいと思って」
　ぼんやり記憶が戻る。そうだ。あたし。
「ごめんなさい。びっくりしましたね」
「大丈夫か」


　穏やかな声。見慣れぬ天井は美羽の部屋とは違った。白さが病院を思わせた。
「双子だったんです」
　しゃべるつもりはないのに言葉が飛び出していた。


「二卵性の男と女だったから似てないっていつも言われました」
「弟？　明石、って・・・名前？」
「はい。父の故郷からとったそうです」
「美羽、は」
「母の好きな言葉だって」
　懐かしい姿。
「明石は陽気で明るくて大胆で、そのくせ好きな子には奥手で。からかうとムキになって」
「いい弟だったんだ」
「はい」
「・・・事故？」
気遣いが声にあったから美羽はただ頷いた。


「バスに・・信号無視の車が突っ込んで・・・死者は二人だけだったんですけど」
「そうか」
「あたしが。あたしの・・・忘れ物を取りに行こうとしたんです」
　美羽が大きく息を吸って、吐く。
「同じ大学の３年でした。あたしがゼミ提出用のレポートを忘れて。授業が休講になった明石に取ってきてって」


『全く。姉貴のくせにしょうがないな』
『だって〆切なのよぉ』
『一個貸しな。貴佐ちゃんによろしくいって』
『あんたね。さっさと告らないと誰かに盗られるわよ』
　手を振って走っていったそれが最後になった。繰り返し繰り返し責められる事実。どうしようもないのに。


「明石が好きだった娘。幼なじみなんですけど、来月結婚するんです。告白もしないうちだったから明石の気持ちなんて知るはずもなくて。おめでたいことなのに悲しくて」
　美羽だけが知っていた彼の恋心は実ることなく消え忘れられていく。忘れる人が悪い訳じゃない。悪いのは。


「ほんとならその時間、バスに乗ってなかったのに」
　天井をみつめる眼から涙は流れない。
「あたしが頼んだりしなきゃ。今も明石は生きてたのに」
　まぶたを閉じると耐えきれぬように背中を丸め美羽の身体は小刻みに震える。黙って聞いていた丈は突然美羽を抱き起こすと膝の上にのせて抱え込んだ。ゆっくり上げた顔にただ「シー」と囁きなだめる。胸に頭を引き寄せ優しく揺らした。


　泣けばいいのに。泣けば楽だろうに。身体を震わせるだけの美羽がつらかった。責めるべきは事故の加害者だろう。そんなことは美羽だって百も承知している。それでも襲ってくる自責の念は運命の岐路で背中を押してしまった偶然。大事な人だったからこその。

　丈にもわかる。丈だからわかる。
　求めている、許し。


「・・・それ、誰かに言ったのか？」
　返事はない。
「おふくろさんとか親父さんとか」
ぶるんぶるんと首が振られる。
「話してみたら」
　また振られる首は強く激しく。


「君が何かを抱えてることは多分ばれてる。息子も亡くして君もそれじゃ親はもっと辛い」
「だって」
「親は君よりも賢いよ。亀の甲より年の功っていうだろ」
　暗いまなざしを上げた美羽に丈は言い切った。
「黙ってるよりも。いっそ責められた方が楽だよ」


　そうだろうかと。そうかもしれないと、丈に言われれば思えた。
　それほど信頼していた。いつのまにか。