水族館の周囲は広い公園になっている。カフェを出たふたりがぶらぶらと辿り着いたのは人工の渚だ。コンクリの浜は殺風景だが都会的と言えるかもしれない。大きな風向計が高い場所でくるくると廻りながら風向きを示している。強い日射しが夏を主張している。


　どうして言っちゃったんだろう。３，４歩前を行く丈の斜め後ろからゆっくり従いながら美羽は思う。
　弟のです。それだけ言えばすむことなのに。　形見なんて。
　美羽の目に映る丈の背中。男の人は誰もがこんなに大きいのだろうか。それとも？　彼よりひと回り若かった明石は全体がもっと華奢だったのに何故か似てる。肩幅。首筋。頭の形。それに物の考え方まで。


「苦しい時とかどうするんですか」
　陽が西へと傾く空。丈は立ち止まって振り向いた。足元でわだかまっている影も傾きを変える。
「なに？」
「タバコってふつうはストレス発散でしょう？　亀沢さんは違うんですね。嬉しい時こそ吸うみたい」
「そうだな」
「じゃあ辛い時とかイライラする時とかどうするんです？」
　両手をジーンズのポケットにつっこんで丈は美羽を見る。
「とことん正面対峙。俺の場合タバコはそういうとき逆効果だな」
　ふと。考える前に言葉が彼へと飛び出していた。


「後悔、したことありますか？　死にたいくらいの後悔」
「あるよ」


　唐突な問いへ間髪入れず返った肯定に美羽の方が驚いた。まなじりが切れるくらい見開く眼。声の震えが抑えられない。
「・・・どんな？」
　じっと眼を合わせた丈は美羽にゆっくり手をさしのべた。ためらいながらも預けた手は強く握られ引っ張られる。
「楽しい話じゃないんだ」
　浜沿いの歩道をふたりは並んで歩き出した。





「俺の父は再婚で。前妻が俺の実母になる。別れたのは俺が３つの時だから顔もおぼろだ。そんな彼女から一度だけ手紙が来た。高校生の時。会いに来てくれとあった」
　抑揚のない平板な声で丈は語る。美羽の手はくるみ込まれたままだ。麦わら帽子を風がなぶる。空気が湿度を増していく。空に広がり始めている雲。


「今のおふくろ、義理の母とはうまくやってたから実の母のことなんて忘れてた。晴天の霹靂ってやつだ。おまけに思春期まっただ中の俺にその手紙はうっとおしいだけだった。父から再婚してるのは聞いてたし、いまさら何をってシカトして。すぐ忘れた」


　立ち止まった丈が海を見る。沖を見る。幾重もの波が追い駆けっこを繰り返している。
「２ヶ月後。親父に連れられて行ったのはその母の葬式だった」
　美羽が見上げる横顔はやっぱり平板。何も読めない。


「ガンだったらしい。あっという間で。再婚先の相手や連れ子がひどく泣いてた。親父も。俺は線香一本上げただけだった」
「じゃあ手紙って」
「死ぬ前に一度会いたかったってことだろうな。おそらく」
美羽の痛ましげな視線を丈はクッと笑って蹴飛ばす。


「違うって。その時俺は後悔なんてしなかった。理由を書かなかったお袋に腹は立てたし気の毒とは思ったけどな」
「なら」
「その２年後だ。運の悪いことに今度は義理のおふくろが倒れて」
「え？」
「手術がどう転ぶかわからなかった。そしたらおふくろが言った。子どもに会いたいって。彼女も再婚で前の旦那のところに娘がふたりいたんだ。聞いてはいたから俺が頼みに言った。親父はおふくろにつきっきりだったし」


「・・会えたんですか？」
「俺と違って素直な娘達だったから。おふくろは喜んで手術も乗り切った。今も元気だ」
「良かったですね」
「その時初めて後悔したんだ。とてもね」
　丈の声がくぐもった。沖に据えた視線は動かぬものの眼はもっと遠くを見ている。一面の空はただ濃くなっていく。


「むろん、俺は病気を知らなかったしおふくろも知らせなかった。誰かに頼むこともしなかった。おふくろのガンは進行が早い上悪性でどのみち駄目だったかもしれない。でも。今のおふくろが娘達にあって頑張った姿を見てからずっと後悔してる。できることはあったかもしれない。会うだけでもって。別に深く考えて無視したわけじゃない。恨みでも仕返しでもなかったから余計に堪えた。とりかえしがつかないってのはああいうことだな」


　言葉が出ない美羽は彼の手をギュッと握りしめた。
「面白い話じゃないだろ」
チラッと美羽を見た彼は片頬で笑ってくれる。やわらかく。美羽の胸に湧きあがってくる何か。


「どうやって」
「ん？」
「乗り越えたんですか。どうやって忘れたの？」
　答えが欲しかった。
「乗り越えてないさ。忘れてない」
　返ってきた断定は厳しい。彼にも美羽にも。
「どうしようもない。自分を悔いて、受け入れて。生きていく。そういうもんだ」


　淡々とした事実は他の人に言われたならとてもきついだろうに。丈に言われると素直に聞けた。強いと思った。強くて優しい。隣に並んだ美羽の前にも沖と空がある。急に肩を抱かれ引き寄せられた。耳の上で囁き声。
「でも。重いな」
　ポツリと素肌の腕に雨を感じた。





　忘れてない。忘れられない。記憶は今も鮮やかで苦い。恋愛に及び腰になったのはあれ以来だと丈は初めて気づいた。実の母の愛情を受け取れなかった、それ以来。気づかせたのは彼女だ。
　抱き寄せた身体は細かった。愛おしかった。丈のシャツを握りしめ、多分唇を切れるほど噛んでいる。いつもどこかで引き絞ったままの緊張を緩めてやりたかった。唇だけでも。


　顎を持ち上げればその額に雨が印を打つ。浮かんでは消えるいくつもの感情を口づけと一緒に呑み込んだ。ゆっくりと舌でなぞればわずかに緩むその境目も愛撫する。腕の中で緊張と弛緩を繰り返す美羽の身体。初々しいその反応を丈は夢中で探った。キスを刻みあうふたりを次第に太くなった雨脚がやがて追い立てた。